第4話 津軽の雄、安藤氏  〜波紋〜

  • 2013.08.18 Sunday
  • 09:56
水面に落ちた枯葉が大きな波紋を作るように…
蟻の穴から堤が崩れるように…
※青森県深浦町にある関の杉看板


蝦夷の反乱によって落とされた安藤五郎の首は、歴史の水面に波紋を広げていく。 波紋は、東北有数の武家だった安藤氏を揺り動かし、ついには、全国を統一していた鎌倉幕府崩壊へと繋がっていきます。鎌倉幕府と安藤氏の関係は、その東北統治時まで遡ります。青森においては、制圧された領土は、全て北条得宗領となり、ひとつを除いて得宗北条氏の被官たちが青森県域の各地に入部することになりました。  唯一、土着の豪族から地頭代官に任命されたのが、蝦夷と密接な関係があると言われる津軽安藤氏です。安東氏は、日本の中世に陸奥国津軽地方から出羽国秋田郡の一帯を支配した武家でであるといわれています。その安藤氏の血を引く、蝦夷管領安藤五郎が反乱によって討たれたようです。その後に起こったのが、熾烈な総領争いでした。蝦夷代官、安藤季長とその従兄弟、安藤季久の内乱です。この内乱は、幕府を巻き込むことになったのち、得宗家公文所の裁定にかけられることになったのです。幕府側が両者から賄賂を受け取っていたため、事態は紛糾してしまいます。
※甕杉と呼ばれる樹


結果として、安藤季久を蝦夷代官職にする裁定を下すのですが、安藤季長はこれに納得せず、内乱はおさまりませんでした。この事態に及んで、いよいよ、安藤季長の内紛は鎌倉幕府への反乱を意味するものとなりました。幕府は数度、追討軍の派遣を行うも、戦乱を抑えることができず、ついに和談をもって解決としました。しかし、「武力で制圧できなかった」この事実が幕府の求心力を低下させました。ここから、幕府は滅亡への道を辿ることになります。安藤五郎が起こした波紋は、次第に勢いを増し、ついには幕府の存亡を揺るがす波となったのです。
出典:
青森県史 資料編 中世 p89(青森県)
新青森市史 資料編2 古代・中世 p341(青森市)
安東氏‐下国家四百年ものがたりp18・p38(無明舎出版)
アラン・スミシー

コラム 樹齢千年の甕杉

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第3話 津軽の夜明け 〜嘉元の鐘〜

  • 2013.08.16 Friday
  • 09:51
 


※長勝寺 山門

青森県内最古の銅鐘、嘉元(かげん)の鐘は、北条貞時が弘前市藤崎の護国寺に作ったものです。嘉元4年(1306年)、時代は得宗専制化をめぐり、北条氏内部での覇権争いが激化している頃でした。 得宗専制化とは、鎌倉時代において執権を務める北条氏の惣領であった得宗に幕府権力が集中していたことを指します。  鎌倉幕府を3つの時代に分けた場合、源氏将軍、執権政治に続く第3の時期にあたります。「光源氏」に似た名前ですが、全く関連はありません。この「源」姓は当時の鎌倉幕府における武士の階級を表していて、実際には、どんな姓だったのかはわからないそうです。弘前市中別所の板碑の中に名前が記されていること、弘前市長勝寺の「嘉元の鐘(かげんのかね)」という重要文化財の梵鐘(ぼんしょう)にもその名が残っていることから源光氏は実在したとされています。(つがるの夜明けP98〜100陸奥新報社)


※嘉元の鐘

さて、この「源光氏」が何者なのかということですが、前文で述べた板碑の文面には、亡父「高椙西円禅門(たかすぎさいえんぜんもん)」の三十五日忌に立てた供養碑であること、他の板碑の中に「源泰氏(みなもとのやすうじ)」の名前もあり、「源泰氏」が「高椙郷主(たかすぎきょうしゅ)」といわれています。


※鎌倉時代の板碑

津軽は得宗領におかれ、鎌倉の文化や宗教の影響を強く受けていたといわれています。そのひとつとして、北条貞時が身内人の結束を高めるために、嘉元の鐘を作ったといわれています。
身内人とは、北条氏に仕えた武士、被官、従者などを指し、14人の得宗被官の名前が刻まれています。もともとこの鐘は藤崎にあった護国寺に掲げられていたもので、幕府の祈祷所となっていたそうです。
藤崎は、貞時の祖父の時頼廻国伝説や、時頼の妾だった唐糸御前の伝説がのこされている土地です。 伝説というのは、時頼が出家後、旅の僧の姿で貧民を救って歩いたという伝説が太平記などの文献にも残っています。しかし、鎌倉幕府の正史(吾妻鏡)には、時頼廻国伝説の記述は残されていません。時頼のお忍びの行動だったとすれば納得は出来ますが。


※他の板碑

この鐘に刻まれた14人の一人である源光氏は、弘前市高杉あたりにいた豪族と考えられており板碑も残っています。その他の人物についても諸説は残っていますが、関東に拠点を置きながらも、この頃に津軽地域で地頭代職を得ていたのではないかと推測されます。この頃から津軽は大きく変貌を遂げ、更に南北朝の内乱に巻き込まれていきます。

出典 新編 弘前市史P237〜254(新編弘前市史編集委員会)
       図説 弘前・黒石・中南津軽の歴史P76〜77(株式会社郷土出版社)
   
   
(メガネ)

 


コラム 板碑の歴史

第2話 津軽萩野台の合戦 〜十三湊の覇権をかけて〜

  • 2013.08.15 Thursday
  • 09:44
文治年間(1185年から1189年)の頃、十三湊周辺は十三藤原氏初代秀栄(奥州藤 原氏3代秀衡の弟)が福島城を築き、中央統治の力がおよばない独自の政権を確立し、 繁栄していました。
※青森県藤崎町国道7号線沿いにある石碑

しかし、3代秀直(ひでなお)の頃、執権・北条義時が十三湊を直轄地にしようと、 安東貞季(さだすえ)を外三郡(津軽半島)の蝦夷管領に任命しました。そして、貞 季はその拠点として福島城の北方・小泊に、城柵を築きました。  このことに秀直は激怒し、小泊の城柵を攻め落とします。その後、貞季の居城・藤 崎城に向けて進軍し、寛喜元年(1229年)、両氏は平川沿いの萩野台でぶつかります。
※青森市鶴ヶ坂にある戸建沢神社

この十三藤原氏と藤崎安東氏の戦いが「萩野台の合戦」です。両氏とも安倍氏の後裔で同族でした。
当初は十三藤原軍優勢でしたが、大雨による増水により立ち往生していたところへ、 曽我氏が加勢し、背後から奇襲をかけたことにより形勢が逆転。13日間続いた攻防もあっ けなく終わり、藤崎安東氏が勝利します。(藤崎町史第一巻P72〜74)
その後、秀直と一族は渡島へ流罪となりますが、秀直の子は鶴ヶ坂に逃れ、「炭焼き藤太」としてくらしていました。  藤太は出雲大社の神様の導きにより、京の右大臣の姫を娶り、のちに「藤原頼秀」と なります。その7代後が弘前藩の祖となった大浦光信だという伝説があります。(青森の歴史散歩P80〜90) 一方、十三湊を手中にした安東氏は交易により、栄華を極めることとなります。

出典 藤崎町史 第一巻P72〜74(藤崎町)
   青森歴史散歩P89〜90
-haru-


 コラム 金売り吉次