南部編コラム36話 八戸三社大祭

  • 2013.07.31 Wednesday
  • 23:57
 八戸三社大祭は毎年7月31日〜8月4日まで行わる、八戸地方最大のお祭りといわれており、国の重要無形民俗文化財に指定されています。今から約290年前に天候の悪い日が続き、冷害が心配されたことがきっかけです。町の有力者達が藩の氏神である法霊社(現在のおがみ神社)に祈祷を託したところ、天気が回復し作柄もよくなったそうです。これに感謝し、享保六年(1711年)に法霊社の神輿が八戸城下を巡り長者山虚空蔵堂まで渡ったのが八戸三社大祭の起源だといわれています。
7月31日は前夜祭で山車の展示やお囃子実演が行われます。8月1日は「お通り」と呼ばれる、おがみ神社・新羅神社・神明宮の三神社の神輿行列と山車の合同運行が催されます。市庁舎前から出発し新羅神社の近くまで歩きます。8月3日は「お還り」よばれており、今度は新羅神社近くから出発され、表通りに出て八日町で解散となるそうです。この運行コースは江戸時代の「法霊御神事行列」が原形となっており、町の発展と共に変化されました。祭りの見所としては歌舞伎、民話、伝説などを題材として毎年27台もの華やかな山車が作られている点であり、近年では展開・せり上がり・起き上がりといった「機械からくり仕掛け」を備えたものが主流となっているそうです。

 八戸三社大祭は子供たちの元気いっぱいのかけ声が独自の情緒を醸しだすこの豪華絢爛な山車まつりとして、毎年多くの観光客で賑わっているのです。

金さん

出典
八戸市観光課「八戸三社大祭」ホームページ
「三戸・八戸の歴史」郷土出版社

南部編コラム35話 斗南藩の由来

  • 2013.07.31 Wednesday
  • 23:20

斗南の名の由来についてはいろいろな説があり、中国の詩文の中にある「北斗以南皆帝州」から出た説が一応定説となっています。会津藩士達は、会津の地は失っても、「本州最果ての地もまた大君(天皇)の領地である。我々は朝敵でもなければ賊軍でもない。ともに北斗七星を仰ぐ帝州の民である」という感情の高まりを見せたとも考えられています。
もう一説は、天文学を学んでいる人が多く、憎き新政府に邪念の炎を燃やし、斗南を「南斗六星」に結びつけたとのではないかという説もあります。これは北斗七星に対してつけられた呼称であり、射手座の中央部を指します。この星座をよく見ると 射手が、永久に放たれることのない矢を隣の蠍座に向けているように考えられます。つまり蠍座は憎き薩摩藩閥政府であり、射手座は薩長に対して憎しみの矢を向けている会津人の姿と重なり合うといえます。
また表向きは「本州最果ての地もまた大君(天皇)の領地である。」という姿勢を示したとしても、心の奥底には、いつの日か“南瓠△弔泙蟶討啣馗鼎涼呂防颪ぬ瓩蝓∪菫賃紂垢領遒魘〕椶掘∧蠱だ鑠彈圓領邵欧魄屬瓠藩の繁栄を願って「斗南」と号したといわれています。
サト
出典:会津・斗南藩史
 

南部編コラム34話 新撰組

  • 2013.07.31 Wednesday
  • 18:42
 新撰組の名前は知っている人は多いと思います。新撰組とは江戸時代末期に、京都において反幕府勢力を取り締まる警察活動をしていた武装組織です。
新撰組は戊辰戦争にも参加していました。
新撰組の隊員は24名で構成されており、最盛期には200名を超えました。新撰組となる以前の浪士たちは、身なりの貧しさから「壬生浪」(みぶろ)と京の人から呼ばれていたそうです。
この新撰組をまとめていた局長が近藤勇(こんどういさみ)、新撰組副長には、土方歳三(ひじかたとしぞう)がいました。
新撰組が戊辰戦争に参加したのは慶応3年(1867年)10月に幕府軍に従い戦いました。しかし、初戦の鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗戦し、軍艦で江戸に撤退しました。
この時期、戦局の不利を悟った隊士たちが相次いで脱走し、戦力が低下しました。
 その後、幕府から新政府軍の進行を阻止するため、再び戦に出動しましたが、敗戦し再び江戸にもどることになりました。
幕府との方針の違いから、新撰組隊士、永倉新八(ながくらしんぱち)、原田左之助(はらださのすけ)は離隊し、近藤勇、土方歳三は再起をかけ流山に移動するが、近藤勇が新政府軍に捕らわれ、処刑され、沖田総司も持病の肺結核で江戸にて死亡しました。
その後も新撰組は、宇都宮城の戦い、会津戦争にも参加するが、斉藤一(さいとうはじめ)が離隊。箱館戦争では、隊士を助けようとした土方歳三が銃弾に当たり戦死し、水や食料もなくなり、新撰組は降伏しました。
戊辰戦争後、明治政府は隊士の遺族らに遺品の所有を禁ずる等、歴史から新撰組は消滅したのです。

参考文献 会津戦争全史
(メガネ)

 

南部編コラム33話 野辺地戦争

  • 2013.07.30 Tuesday
  • 23:30
 野辺地戦争は、戊辰戦争の一部であり、天皇制国家から幕府制国家への移行期に起きた内乱であることは、ブログにも書いたとおりです。
 戊辰戦争の幕開け、鳥羽・伏見の戦いでは、薩長軍約5000人の兵に対し、幕府軍は15000人でした。数字だけで見れば、圧倒的に幕府軍の有利になるわけですが、結果は薩長軍の勝利でした。その違いはどこにあったのでしょうか。
 それは、西洋とのつながりにあると考えられます。薩摩藩は洋式軍備を積極的に取り入れていました。鳥羽・伏見の戦いにおいても、幕府軍の武器は旧式銃、それに対し薩長軍の武器は洋式銃でした。長州藩も下関戦争を経験しており、今までの幕府制国家では国家存亡の危機であると考えていたのかもしれません。
 西洋との関わりから日本の現状を見た薩長軍が、新政府を築くことができたのは、日本の生き残りにとって幸運なことだったのかもしれません。
アラン・スミシー
参考文献
みちのく南部八百年 地の巻
戊辰戦争論
戊辰野辺地戦争の悲運
三戸町通史

南部編コラム32話 南部領の飢饉と開墾

  • 2013.07.30 Tuesday
  • 16:10

 天保の飢饉で苦しむ八戸領の百姓たちの間で、ある噂が広がりました。それは、「老中野村軍記が、百姓への食糧の配給を行おうとしている。そして、配給量は、一人一日玄稗三合である」というものでした。
 野村軍記は、八戸領の財政難を立て直した人物です。軍記は、八戸領の物産を直接管理する専売制度を行ったり、有力商家の取りつぶしを行ったりと、強権的な姿勢で八戸領の財政を立て直しました。
 軍記のその剛腕は「良くても、悪くても、軍記様」と、八戸地方の人々に言われるほどで、財政は立て直したものの、多くの反感もかっていたようです。
 その軍記が食糧の在庫所有調査をしたので、農民たちは、食糧を強制的に買い上げられ、配給制度に変更されると噂し始めました。軍記ならやりかねない、と思われていたようです。
 軍記にそのつもりはなかったようですが、八戸領の重役たちは、本人が釈明しても事態が拡大する可能性がある。それよりも軍記に責任を負わせることで、鎮静化を図ろうと考えました。そのため、軍記は、自分の屋敷から出ることも許されませんでした。
 その軍記に対して、百姓たちが蜂起します。天保百姓騒動です。百姓たちは、その数を増やしながら、八戸の城下町の入口まで押し寄せます。その数は、五千人以上になったといわれています。
 八戸領は事態を鎮静化するため、百姓たちの要求を受け入れました。
 そして軍記は、百姓一揆の責任を問われ、老中の職を失い、親類へのお預け謹慎を命ぜられました。そして、そこで軍記は病没します。
 野村軍記は、八戸領の汚れ仕事を全うし、最後には八戸領に見捨てられたといえるかもしれません。
 
アラン・スミシー
参考文献
みちのく南部八百年 地の巻

南部編コラム31話 田中館愛橘(たなかだてあいきつ)

  • 2013.07.30 Tuesday
  • 15:30

岩手県二戸市はローマ字の普及に努めたことで有名な田中館愛橘の出身地です。田中館愛橘は物理学者、航空物理学などで幅広い業績を残し、東京大学名誉教授となったことでも知られています。日本式のローマ字、メートル法の普及にも功績を残し、市内にはローマ字の書を刻んだ石碑が多数残されています。数々の賞や文化勲章を授けられ功績を残してきた愛橘ですが、人間的にも素晴らしいエピソードが残されています。

安政3年(1856年)、愛橘は岩手県二戸市の南部藩史の家に生まれ、武士の子として育てられます。相馬大作の愛弟子・下斗米軍七から武芸を学んだそうです。幼いころから厳しく育てられた愛橘は、今これをやらねば殺される、という覚悟で勉学に励んだそうです。その努力が実り、愛橘は英語、フランス語も流暢に話せたにも関わらず、二戸弁だけは生涯抜けることはなかったそうです。また愛橘は忘れ物の名人だったことでも有名です。外出をすれば、帽子を忘れ、傘を忘れる。時には人の飲んでいるコーヒーに口を付けてしまったりもしたそうです。しかし仕事や大事なことは忘れることがなかったそうです。

明治11年(1878年)、愛橘が東京大学物理部を専攻するにあたり、当時は「そんなものでは飯が食えない。一体君は何で飯を食う気だ?」という人もいたそうです。愛橘は、「箸と茶碗で飯を食う気だ。」とすまして答えたそうです。明治27年(1894年)愛橘は38歳で結婚しますが、娘が生まれてまもなく、妻のキヨ子が亡くなります。結婚からわずか1年あまりのことです。その後、愛橘は再婚することなく、娘を育て上げます。公務で渡航し、帰国すると必ず娘を連れて妻の墓前へ伴ったそうです。

また愛橘は音楽と和歌もこよなく愛したそうです。当時は物珍しい西洋のフルートを吹き、新しい西洋の音楽でも身をもって伝えようとしたそうです。しかし、愛橘の本当に愛した歌は、郷土・二戸の呑香稲荷神社の神楽歌だったそうです。昭和22年(1947年)、愛橘91歳の時に詠んだ春の歌があります。「ただひとり 雨さへおひて 古の 白鳥川に にほふ梅はも」白鳥川は馬淵川に合流する小さな川ですが、合流点のすぐ近くに岩をくりぬいて作られた岩谷観音という観音様があります。近くには九戸政実も愛したという六弁の梅の木もあります。現在もこの周辺では梅の木が見られ、春には美しい花を咲させるそうです。

サムライの時代から近代化へ向けた激動の時代に生まれ活躍した田中館愛橘。この二戸の地からは武士の精神を引き継いだ文武両道の人物が輩出されています。日本の近代化を科学者として支え、発展、独立に寄与したその足跡は、田中館愛橘記念科学館や二戸歴史民俗資料館で見ることができます。

参考文献:田中館愛橘先生
 
芳賀

南部編コラム30話 馬産地・七戸町

  • 2013.07.30 Tuesday
  • 14:20


青森県七戸町は、室町時代まで糠部(ぬかのぶ)とよばれ、名馬の産地として有名です。糠部という地域は、現在の岩手県北部から下北半島および津軽の平内地方を含む青森県東半部を指します。糠部という地名は、吾妻鏡(日本の古い歴史書)の文治5年(1189年)9月17日条に、平泉藤原氏2代目・基衡が毛越寺建立にあたり、本尊造立の際、「糠部駿馬五十疋」を功物として仏師雲慶に与えたと記述され、古くから名馬の産地であったことが窺えます。

糠部には、九ヶの部四門の制(くかのぶしかどのせい)がしかれていました。この制度とは、東西南北の4つの門(かど)と、一から九までの戸(へ)に分けられ、それを一戸・二戸・三戸・四戸・五戸・六戸・七戸・八戸・九戸とし、余った四方の辺地を東門・西門・南門・北門と呼んだといわれています。一つの戸に一牧場を設け、牧士を配置したそうです。一方、東門が八戸・九戸、西門が三戸・四戸・五戸、南門が一戸・二戸、北門が六戸・七戸を指すという説もあります。

「戸」とは牧場の意味であるともされています。馬牧・駿馬の産地として知られていた糖部の公田に課された年貢は馬で納められていたそうです。七戸町では、南部曲屋(なんぶまがりや)と呼ばれる人の住む母屋と馬の厩が「く」の字につながった建築様式を見ることができます。曲屋は馬の管理面で多くの利点があったと考えられていますが、なによりも馬に対する深い愛情があったからではないかといわれています。近代でも曲屋の伝統は受け継がれ、南部曲屋育成厩舎からは有名な競走馬の育成もされてきたそうです。

七戸町にある道の駅では、曲屋で育った二頭の馬の銅像が建っています。1957年に初のダービー馬となったヒカルメイジ、1962年にダービーを制したフエアーウインです。古代から近代まで馬を神聖な生き物として敬ってきた人々の気持ちが、馬産地として有名な七戸を築き上げたのではないでしょうか。

参考文献:七戸町史2
図説 三戸・八戸の歴史 青森県の歴史シリーズ
 
芳賀

南部編コラム29話 古代の鉱業

  • 2013.07.30 Tuesday
  • 13:10

日本民族の金属鉱業に関する歴史はかなり古く、九州北部の弥生式古墳の中には、銅剣や鉄剣などが発見されています。
7世紀には諸鉱物が、その産地を明示して具体的に表れてきます。天武天皇が白鳳3年(674)に長崎県で産銀したのが始まりです。
慶雲5年(708)に元明天皇が埼玉県秩父市から、和銅を産出します。和銅とは自然銅のことです。
尾去沢鉱山の発見も708年とされていますが、当時の国守の勢力は、表日本(太平洋側)では今の宮城県、裏日本(日本海側)では山形県で止まっており、この伝説は今のところ信頼し難いそうです。
古代から中世にかけての主要な金産地は陸奥国でした。天平21年(749)今の宮城県涌谷町(わくやちょう)から初めて砂金の産出があり、鉱業は東北地方で開始されました。
涌谷の産金以後、多賀城以北の租税に金が選ばれたので、金の探求は一層盛んになり、延暦16年(797)以降、坂上田村麻呂の遠征の際も北上山地で金を治めた口碑が各地で残っています。
青森県にも鉱山はたくさんあり、弘前藩最大の鉱山と呼ばれたのが、青森県中津軽郡西目屋村にある尾太鉱山です。17世紀後半には銀山として、18世紀前半には銅鉛山として最盛期を迎えました。当時は鉱山の総人数として、2300人、2400人ほどでした。
明治以降は、操業と休山を繰り返し、1952年に操業を再開し、近代設備による採鉱で一時この一帯は好景気に沸きました。弘前で1万円札を持っているのは尾太鉱山関係者だけと言われたこともあったそうです。
昔から金はかなりの価値があり、これからも高級な貴金属として扱われていくことでしょう。


参考文献 鉱山と鉱山集落
(メガネ)

南部編コラム24話 南部藩から見る盛岡名産品

  • 2013.07.28 Sunday
  • 16:46


 時は慶長年間、南部氏第27代当主(陸奥盛岡藩)南部利直(なんぶ としなお)公が花江戸に向かう道中、巻城に立ち寄り食事をした際に、椀で供されたそばのおいしさに何杯もおかわりしたといわれています。これが岩手県で有名な「わんこそば」の由来となります。「わんこ」とは木地椀をさす方言であり、盛岡や花巻などの地域では客人をもてなす際、そばを振舞う風習があったそうです。給仕さんが次々と椀に入れるそばは、約10杯でざるそば1枚分であり、100杯で「横綱」と認定されます。薬味を味わいながら、マイペースで食べたり、何杯食べられるか競い合うといった様々な食べ方があります。お給仕さんが「ハイ、どっこい。じゃんじゃん」の掛け声とともにそばを次々と放り込み、食べ終わるとすぐにお椀に入れる作法は「おてばち」と呼ばれる客人に対するもてなしの礼儀からだといわれています。

 もう一つの名産品、南部鉄器は、17世紀中頃、南部藩主が京都から盛岡に釜師を招き、茶の湯釜をつくらせたのが始まりといわれます。伊達藩領であった旧水沢市に早くから根づいた日用品鋳物の影響もあったそうです。現在でも昔ながらの伝統的技術・技法を受け継いで、茶の湯釜や鉄びんなどを一つ一つ手作業で作られており、南部鉄器は昭和50年、国の伝統的工芸品として第一次で指定されています。

 また、旧南部藩では、野戦食として600年の昔から煎餅が焼かれ食べられていました。これが南部せんべいの由来です。身近にある素材でこしらえることができ、尚かつ日持ちするという便利性があったからだといわれています。南部の暮らしに煎餅は欠かせないものであり、法事や祝儀には付き物だったそうです。婚礼には、煎餅の上に赤飯を握って乗せ、近所の人に配り歩いたり、お産見舞には焼き麩と煎餅を一緒にして届ける風習もあり、南部の風土が生んだ伝統あるお菓子といえるでしょう。
 
(金さん)

参考文献

一般社団法人花巻観光協会「イーハトーブ花巻」
東北経済産業局「みちのくの匠」
公益財団法人岩手県観光協会「いわての旅」
株式会社小松製菓「南部の風土が生んだ伝統のお菓子」

南部編コラム28話 野辺地戦争と野辺地城跡

  • 2013.07.27 Saturday
  • 11:44
    


幕末の明治元年9月23日、戊辰戦争の戦いのひとつである野辺地戦争がありました。奥羽列藩同盟として幕府側についていた盛岡藩、八戸藩の連合軍と新政府側についた弘前藩、黒石藩の連合軍との戦いです。

 


藩境の野辺地で行われたこの戦いは弘前藩、黒石藩の連合軍180名が野辺地に向けて攻め入る形で始まりましたが、盛岡藩と八戸藩の連合軍が撃退し勝利しました。戦い自体はわずか一日で終結したそうです。

  


このときに盛岡藩、八戸藩の連合軍が戦いの本陣にしたのが野辺地城跡で藩政時代は代官所があった場所です。野辺地城の起源はわかっていませんが、蝦夷が築いた旧塁を和人が改造して居館としたのが始まりだと考えられています。その後に城が建てられたようです。野辺地城の名は天正20年(1592年)の「南部大善大夫分国之内緒城破却書上」という文書に見ることができますが、図がないため当時の建物の形などは明確にはわかっていません。

 


野辺地は藩境という地理的条件のため、常に軍事的に非常に重要な拠点として位置づけられていました。その役割が幕末まで続くのですが、その間一貫して野辺地城跡が拠点として使われ続けてきたことは、この地がいかに軍事的に優れた地形であったかの証明になるのではないでしょうか。

 
出典:野辺地町史 通説編 第一巻                                        
(サト)

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