南部編第36話 南部家ゆかりのもの

  • 2014.03.13 Thursday
  • 09:16
 南部氏は甲斐国の出身で、鎌倉時代は幕府の御家人として活躍し、南北朝時代に北東北へ拠点を移しました。一族には、三戸南部氏や根城南部氏(八戸氏)のほか、久慈氏・九戸氏・新田氏などがあり、協力と反発を繰り返しつつ、主導権争いをしていました。戦国時代には三戸南部氏の下に勢力を結集させ、生き残りを果たしました。南部氏ゆかりのものは青森県に多数残されています。
 青森県八戸市に復原された根城南部氏の城があります。それは根城跡といわれており、史跡名勝記念物に指定されています。城は本丸をはじめ中館、東善寺館、岡前館、沢里館など堀で区画された八つの郭となっており、本丸からは門、橋、馬屋といった多くの建物跡や生活用具が発見されました。発掘された陶磁器や武器武具等の産地として珠洲(すず)、常滑(とこなめ)、瀬戸・美膿、備前、信楽、唐津といった国産のものから、中国産のものがあることから当時の生活の様子を具体的に知る事ができます。当主が所有している馬を繋いでいたとされる「上馬屋」をはじめとして、来客の馬が繋がれていた「中馬屋」があります。古い巻物には馬屋がよく描かれており、力のある人達は板張りの馬屋を作っていた事や甲斐の国に所領がある事から馬の飼育に深く関わっていた事につながります。この発掘調査によって全国各地の出土品がある事から「南部氏は馬との関連で語られる事が多かったが、実は海の領主であった」などといった南部氏を再考する見解がされているそうです。(三戸 八戸の歴史 P78~79 株式会社郷土出版)現在根城跡付近には八戸市博物館があり、出土品をはじめとした根城のジオラマなどの展示があり根城南部氏のルーツを学ぶ事ができます。

史跡根城の広場

 
中馬屋

 一方、青森県三戸郡三戸町には盛岡南部氏ゆかりの物が残されています。それは三戸町立歴史民俗資料館にある南部藩主、家臣の武具、装束、古文書などの展示によって確認できます。
 

大名長上下は江戸時代の武家の礼服であり、南部家が寄贈したものだといわれています。
 
 黄金橋青銅擬宝珠は かつての黄金橋を飾っていた擬宝珠です。12代南部政行公が詠進した和歌が天皇の御心に叶い、恩賞として従四位下に叙された時に擬宝珠で飾った橋をかけたとされています。
 
 南部利直の4男として生まれた南部利康は、父利直が参勤交代で留守のときに政務をとり将来を期待されていたが24歳という若さで死去したという。 

 
三戸南部氏家臣 蛇沼氏の具足


戊辰役着用具足

青森県内には南部家ゆかりの史跡も数多く残されており、足跡をたどってみてはいかがでしょうか。

金さん
三戸町町立歴史民俗資料館 説明板

南部編第35話 斗南藩 〜会津藩、南部移住〜

  • 2014.03.10 Monday
  • 14:12

 


※斗南藩上陸の地

 明治元年(一八六八年)に起こった会津戦争は戊辰戦争の局面の一つであり、会津藩の処遇をめぐって、薩摩藩・長州藩を中心とする明治新政府軍と、会津藩およびこれを支援する奥羽越列藩同盟などの徳川旧幕府軍との間で行われた戦いです。会津藩は若松城に篭城して抵抗し、城外での遊撃戦を続けましたが、明治元年九月二十二日(十一月六日)、新政府軍に降伏します。
戊辰戦争で幕府側についた会津藩松平家は、所領を没収、会津藩は家名断絶となります。激しい篭城戦の末に武運なく敗れた会津の侍は全員、会津降人(降伏した人)として拘禁されました。主君・松平容保(まつだいらかたもり)と世子の善徳は場外の妙国寺に幽閉され、一般の兵士は謹慎所に移り、病人は青木村に退き、婦女子および六十歳以上、十四歳以下の男子は釈放されました。その後、容保父子および家族は東京に召喚されることになり、会津の地を離れました。


※むつ湾内

 会津藩が新政府軍に降伏し、若松城を明け渡すと、新政府軍は会津藩主・松平容保の代わりとして、戦争責任者の首を求めました。そこで会津藩の家老・萱野権兵衛が戦争責任を一身に背負って、切腹することになりました。萱野権兵衛は、「国家のために死ぬ事は覚悟しており、悲しむことでは無い。むしろ光栄である」と言い残して切腹したとされています。(「会津藩斗南へ」P13〜P16)
 降伏から一年後の一八六九年十二月五日、まだ生まれたばかりの松平容保の子・松平容大が家名を存続することで許され青森県東部に3万石を拝領し、斗南藩(となみはん)を立藩することになります。
斗南藩の立藩に伴い、各地で謹慎していた会津藩士は、謹慎が解かれ、希望と悲壮感を抱き新天地となる斗南藩への移住が始まりました。斗南に移住した旧会津藩士の家族たちは、藩士らより約半年遅れて会津から、はるばる陸路にて旅立ちました。その中には老人や婦女子らに混じって、多くの傷病者たちもいました。しかも、宿泊を拒絶する旅籠も多く、粥をすすり、霙(みぞれ)にうたれても着替えさえなく、新封地斗南を遥かに拝しながら、無念の涙をのみ死んでいった者も数多くいたそうです。
当初、五戸代官所を藩庁としていましたが、下北半島の田名部・円通寺に藩庁を移し、斗南藩となりました。斗南藩三万石と言われる石高も、領地の大半が不毛の未開拓地であり、実際は七千石しかなかったといわれています。
斗南定住の第一歩として、田名部郊外の妙見平に住宅の建設を始めました。ここを斗南ヶ丘と名付け、土塀を巡らせ区画割をしましたが、斗南での慣れない開拓事業は困難と悲惨をきわめたそうです。南部藩、七戸藩にも援助を求め、特に、「三本木開拓の父」と呼ばれていた南部藩士・新渡戸伝(にとべつとう)からは、開拓に必要な農具の援助や開拓技術の伝授など、全面的な支援を受けました。苦しくはありましたが、地域の人々からの善意も寄せられました。これに応えるため全力を尽くして開拓に取り組みました。


※斗南藩上陸の石碑

 ところが、懸命な努力にもかかわらず、斗南藩士に決定的な打撃を加える出来事が起こります。廃藩置県です。それは斗南藩の消滅を意味し、大転機を迎えたのでした。当時、現在の青森県に存在していた八戸、七戸、斗南、弘前、黒石の各藩はそれぞれ県と改められました。田名部の円通寺に掲げられていた斗南藩庁の看板は斗南県庁に書き改められました。「これまでの苦労は何だったのか」藩士たちの間から、怨嗟の声が上がりました。まだ幼い松平容大が五戸から田名部に移り、藩士たちを勇気づけようと下北半島を巡回しました。可愛らしい姿に藩士たちは感激しましたが、それはひとときの喜びでしかありませんでした。廃藩置県をどう説明するか、このままでは不測の事態が起こりうることを危惧した藩幹部達は、東京にいた前藩主の松平容保に下北入りを要請し、明治四年七月二十日、当時藩庁が置かれていた田名部の円通寺に入りました。容保はひっきりなしに訪れる家臣たちと挨拶をかわし、ここに約一ヶ月滞在します。容保は別れの日に容大の名義で、旧臣たちに別れの布告を残し、東京を目指し帰って行きました。
 


※徳玄寺

 その後、弘前、黒石、八戸、斗南、七戸の五県を合併して陸奥国内に一県を置く合県運動があり、明治四年(一八七一年)九月四日、斗南、七戸、八戸、黒石、館(北海道の旧松前藩)の五県は弘前県に併合され、弘前城に県庁を置きました。九月二十三日には弘前県庁は青森にあった旧弘前藩御仮屋に移され、青森県庁と改められました。こうして斗南藩は完全に消滅し、会津藩の再興を夢見て斗南藩の創設に当たった会津藩の関係者は、それぞれ新しい暮らしを求めて散っていきました。

                                                     (サト)
出典 「会津・斗南藩史」P40〜P61 P112〜P120 斎藤勝己



 

南部編第34話 廃藩置県で盛岡藩消滅

  • 2014.01.16 Thursday
  • 13:37


※桂城公園入口(大館城)

 秋田県大館市、大館市役所のすぐ近くに桂城公園があります。ここにはかつて大館城がありました。大館城の歴史は、天正10(1582)以前に出羽国の豪族、浅利勝頼(あさりかつより)により築城されたといわれています。戦国時代、浅利氏、南部氏、秋田安東氏、津軽氏の争いの場となります。この地を勝ち取ったのは秋田安東氏で豊臣政権下において、秋田安東氏の所領となりました。関ケ原の戦いの後、秋田安東氏は常陸国(現茨城県の大部分)に移封され、代わりに佐竹氏(源氏)が支配することになりました。
  慶応4年(1868)、戊辰戦争が開戦し、終戦までの約1年間の戦いの中で、大館城やその周辺で、盛岡藩と久保田藩(秋田藩)による激しい戦いがありました。 戊辰戦争当初、盛岡藩内は新政府方・反新政府方に意見が対立していましたが、最終的に家老・楢山佐渡が藩論を奥羽越列藩同盟への参加継続で一致させ、久保田藩に攻め込むことを決定しました。慶応4年(1868)8月9日(書面は8月8日)に戦書を久保田藩側に提出、盛岡藩は圧倒的な兵員と新式銃・大砲で攻め込み、大舘地区南部の十二所・扇田地区を占領し、大館城に迫ります。 対する大館城守備していた久保田藩は、大館城周辺に布陣を置き、戦に備えました。 同年、8月22日に一発の大砲とともに大館城攻防の戦闘が開始されました。盛岡藩の攻撃により、久保田藩は大館城まで撤退し、籠城しましたが最後は自らの手で城に火をつけ、撤退しました。大館を占領した盛岡兵は徹底的な焦土戦を繰り広げ、大館は火の海となり、町家29軒を残して町は消失しました。(戊辰戦争と秋田 P56〜64) 



※大館城復元図

 大館城を落城させ、久保田城を目指した盛岡藩だが、要衝のきみまち阪で西洋式の訓練を受けた佐賀藩兵らの到着により、状況は一変します。藩境まで押し返され、そこで膠着状態になり、次々に奥羽列藩同盟の同盟藩が離脱する状況に、ついに盛岡藩も降伏を選択しました。 


※扇田神明社

9月22日盛岡藩は降伏嘆願書を正使に持たせ久保田藩側に派遣し、25日に沢尻村で正式に盛岡藩の降伏が締結され、これでこの地区の戦闘は終結しました。
  降伏後、盛岡藩20万石は没収され、白石13万石(現、宮城県白石市付近)転封され、廃藩置県によって明治4年(1871)、盛岡藩は消滅しました。 戊辰戦争によって大勢の人が犠牲となり、町や村が戦火に巻き込まれました。 撤退の際に南部兵は、久保田藩の各地の集落を焼き討ちにしています。このため、これらの地区では盛岡藩に対する恨みが明治後期まで残っていたといわれています。 

 

※戊辰戦争で打ち込まれた銃弾

出典 戊辰戦争と秋田 P56〜64(無明社出版)
   南部町誌 下 P33〜42(南部町)   
                                                 (メガネ)