南部編第33話 野辺地戦争

  • 2014.01.06 Monday
  • 10:27
 青森県野辺地町。県道243号線に面したところに、野辺地戦争戦死者の墓所があります。野辺地戦争は、鳥羽・伏見の戦いに始まり、箱館戦争に終わる戊辰戦争のうちのひとつです。
野辺地戦争戦死者の墓所入口
※野辺地戦争戦死者の墓所入口
 戊辰戦争は、幕藩制国家から天皇制国家に転換する際に起こった、日本を二分した新政府軍と旧幕府軍が対立した内乱のことです。慶応3年(1867年)、徳川幕府15代将軍徳川慶喜が大政奉還を行い、薩摩藩や長州藩の意向を強く受けた天皇制国家を一旦は受け入れましたが、その翌年、諸藩に出兵を命じ、蜂起します。それに対して会津藩は伏見、桑名藩は鳥羽に向かい戦を始めます。すなわち、戊辰戦争の幕開け、鳥羽・伏見の戦いです。この戦いは薩長軍の勝利に終わり、最終的には、江戸城無血開城、徳川慶喜の水戸謹慎という結果になります。
 これで、江戸の基盤を固めた新政府軍でしたが、東北には、それでも幕府制を支持する藩が多く存在しました。彼らは、奥羽越列藩同盟を組み、新政府軍に抵抗します。しかし、これも同盟側の盛岡藩の降伏、会津藩の降伏などにより、新政府軍の勝利となります。 最後は箱館の五稜郭で、最後の抵抗を見せますが、すでに雌雄は決していたようです。 これが、戊辰戦争の概要です。
野辺地戦争戦死者の墓所
※野辺地戦争戦死者の墓所の概観
 では、野辺地戦争は、この中のどこに存在したのでしょうか。野辺地戦争は、ほぼ新政府軍側の勝利が確定したころに、弘前藩が、八戸藩にしかけた戦争です。戦争といえば、大規模なものを想像してしまいすが、いわゆる局地戦です。
 なぜ、大勢が決まったあとに戦争を起こしたかは、詳細はわかっていないようです。ですが、一説には弘前藩の微妙な立場が要因であると言われています。弘前藩は、途中から同盟側から官軍側に立場を変えたのですが、同盟側からは裏切りとみられ、官軍からは、まだ同盟側と通じているのでは?と思われていたようです。そこで、官軍側としての戦績を残し、藩としての意志を示したいと考えていたようです。ところが、弘前藩はこの戦に敗れてしまい、官軍側唯一の敗戦となります。
 しかし、勝利した八戸藩も大勢は官軍にありとみて、すぐさま官軍の総督所へ、謝罪嘆願書を提出しようとします。それに対する総督所の返答は、「そのような書類は提出の必要なし」というものでした。
 八戸藩は同盟側ではあったものの、中立的立場で官軍への援助もあったためにおとがめなしとなったようですが、所詮は大勢が決まった後の局地戦ということで、大事として扱う必要なし、と判断されたのかもしれません。
 墓地に眠る野辺地戦争戦死者たちは、この戦争の顛末をどんな思いで見ていたのでしょうか。
野辺地戦争戦死者の墓碑
※野辺地戦争戦死者の墓碑
 
アラン・スミシー
参考文献
みちのく南部八百年 地の巻 p292(伊吉書院)
戊辰戦争論 (吉川弘文館)
コラム 野辺地戦争

南部編第32話 南部領の飢饉と開墾

  • 2013.12.31 Tuesday
  • 02:43
 

※蛇口伴蔵

 南部領は大きく分けて、4回の飢饉に見舞われています。元禄の飢饉(1691〜1695年)・宝暦の飢饉(1753〜1757年)・天明の飢饉(1782〜1787年)・天保の飢饉(1833〜1839年)です。冷害や水害といった異常気象、5代将軍徳川綱吉が制定した殺生を禁止する法令「生類憐みの令」による、害獣の駆除の不徹底などが原因とされています。
 太平洋沿岸に広がっている南部領は地理的にハンデを背負っています。夏になると、太平洋から「やませ」と呼ばれる北東からの冷たくて湿った季節風が吹きつけ、しばしば冷害をもたらします。特に天明の飢饉は、多くの餓死者を出しました。犬、猫を食べるなんてことは当たり前。飢えに耐えられず、自ら首をくくる者、石を抱いて川や海に身を投げる者、さらには死体を食べる者が続出するほど凄まじいものでした。天保の飢饉では、それらに加え、強盗やそれに対する私刑などが大量に発生し、幕府の取り締まりもままならない状態でした。  

※世増ダム

 その天保の飢饉から遡ること24年、八戸領の侍として、一人の男が誕生しました。名前を蛇口伴蔵(へびぐちばんぞう)といいます。蛇口は、とにかく自分の財産を増やすことにこだわり、土地や建物の転売、高利貸しなど、体裁を省みない蓄財を続けました。 周囲には、変人、ケチ、商人侍などと蔑まれていました。しかし、彼にはどこ吹く風。黙々と蓄財に励んだのでした。その結果、蛇口の財産は莫大なものになり、最早、一代では使い切ることの出来ない額になっていました。
 何故、そこまで蓄財に拘ったのか?そこには、蛇口の固い意志がありました。
蛇口は蓄えた財産を投じ、壮大な構想を実現しようと目論んでいたのです。それは、飢饉に苦しみ、厳しい自然環境にある八戸領に対し、農地造成や物資の流通の利便性を上げるための運河の開発計画でした。  
 蛇口は、盛岡南部領で三本木原開発を行っていた、新渡戸仁(にとべつとう)の息子、新渡戸十次郎と親交を深め、技術的アドバイスを受けながら、自分の構想をブラッシュアップさせ、ついに計画の実行に乗り出します。 まず手がけたのが、白山上水計画でした。この計画は、八戸藩の大杉平や糠塚のあたりの畑を水田にしようというものでした。この計画は、水路は完成したものの十分な水が確保できず、あえなく失敗に終わりました。 次に手がけたのが、蒼前平開発計画でした。蒼前平は、八戸の町の南にある大草原です。この大草原に水を引き、水田にしようという計画でした。しかし、この計画も頓挫してしまいます。土質が悪く、草原まで水を送ることができなかったためです。さらに、悪いことに蛇口自身も病を患ってしまいます。そして、計画中止の2年後の慶応2年(1866年)に、蛇口はこの世を去ります。
 商人侍と嘲笑された蛇口は、結局、何も成果を上げなかったといえます。しかし、それで彼の評価を断ずることはできません。  

※山水寺

 2003年に完工した八戸市新井田川の世増(よまさり)ダムは、八戸市周辺への灌漑用水、上水の供給を担っています。そして、蒼前平もその恩恵に与っています。 蛇口の思いは、時代を超えて受け継がれています。その蛇口の思いが感じられるエピソードを紹介しましょう。

 蛇口伴臧は、安政4年(1857)に八戸藩での職を辞し、隠居しました。そのタイミングで、伴臧は山水と号することにしました。山水とは、論語の中からとられたものです。
『子曰く、知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ』
 知者は円滑に物事を進めることを楽しみ、仁者は欲に流されず天命に安んずることを楽しむ、といった意味です。  

※蛇口伴蔵の墓

 蛇口は、灌漑整備のために「山をうがち、水を引く」という思いを込めて、山水と号しました。 山水は、その壮大な治水計画を滞りなく進めるよう、質素に生活し、また、資金の増加に努めました。そして、我欲を持たず、地域のために、開拓事業を行いました。 その姿は、まさに山水と名乗るにふさわしいもので、蛇口の意志が見事に表されていると言えるのではないでしょうか。
                           
アラン・スミシー
参考文献 :
みちのく南部八百年 地の巻 p267~p278(伊吉書院)
青森県史 資料編 近世5 p137(青森県)

コラム 南部藩の飢饉と開墾

南部編第31話 相馬大作事件

  • 2013.12.31 Tuesday
  • 01:37
 

※相馬大作胸像

 文政4年4月23日(1821年5月24日)に、参勤交代を終えて江戸から帰国の途についていた津軽藩主・津軽寧親を襲った暗殺未遂事件が発生しました。事件の首謀者である盛岡藩士・下斗米秀之進(しもとまいひでのしん)は暗殺の失敗により、相馬大作と名前を変えて、江戸に隠れ住み、後に捕えられ処刑されました。この秀之進の用いた偽名が事件名の由来となっています。

 
※演舞場跡

 寛政元年(1789年)2月21日、秀之進は、盛岡藩二戸郡福岡村(現在の岩手県二戸市)に盛岡藩士・下斗米総兵衛の二男として誕生しました。祖先は相馬三河守(そうまみかわのもり)といい、12代南部政行に仕えていたそうです。文政元年(1806)、脱藩し江戸へ上がり、名剣士として知られていた紀州藩士・平山行蔵の門下に入り、兵法武術を学びます。平山道場の師範代となるまで腕を上げた秀之進は、文化14年(1817年)、地形状況視察の為蝦夷地へ渡ります。この探検により、北方警備の重要性を痛感した秀之進は、二戸へ帰郷し、道場を開き、講堂、演武場、書斎、射撃場、馬場作りなど、本格的な文武の教育のため兵聖閣演武場を開きます。門弟は二百数十名、講堂、書院、水泳場まであったとされる兵聖閣は、全て門弟の作業により完成したもので、その教育は質実剛健を重んじ、真冬でも火を用いずに兵書を講じたと伝わっています。

   

※斬馬刀と普通の刀

 相馬大作事件の発端は、戦国末期からの盛岡藩と津軽藩の長年の領土争いを巡る怨念ともいわれています。また、事件の前年、盛岡藩主利敬(としたか)が39歳の若さで死亡しています。利敬は、弘前藩への積年の恨みが原因で亡くなったと伝えられています。利敬亡き後、南部利用が14歳で藩主となりますが、幼少のため無位無官でした。同じ頃、弘前藩主・津軽寧親は、従四位下に叙任されています。盛岡藩としては、主家の家臣筋・格下だと一方的に思っていた弘前藩が、上の地位となったことに納得できなかったことも要因のひとつかもしれません。しかしその真意は、単なる南部家への忠義だてではなく、津軽・南部両家和解の上、協力して北方警備にあたるよう自覚を促すことであったともいわれています。(国史大辞典第七巻p165吉川弘文館)

   

※斬馬刀の長さ

 こうして秀之進は津軽寧親に果たし状を送り、辞官隠居を勧め、従わない場合には暗殺すると伝えます。その後計画は実行されますが、仲間の密告により未遂に終わります。暗殺の失敗により、秀之進は盛岡藩に迷惑をかけないため「相馬大作」と名を変え、江戸に隠れ住みます。しかし津軽藩の用人に捕えられ、文政5年(1822年)、千住小塚原の刑場で首を刎ねられるという獄門の刑を受けます。処刑の際に、大作の書いた辞世の歌があります。

「七度も 生まれ変わりて 北の海の あらぶるえびす 討ちてはらはん」

今死ぬとなっても、なお七度生まれ変わって、北海の海に荒らびる悪者を打ち払おうという意味です。これが大作の本当の心だったのではないでしょうか。事件は未遂に終わったとはいえ、厳しい処分を受けた大作は、34年の短い生涯を終えました。

 当時の江戸市民は、南部家に忠義を尽くした大作の行動に大きな感銘をうけ、事件は講談や小説・映画・漫画の題材として採り上げられます。みちのく忠臣蔵や赤穂浪士の再来とも呼ばれた秀之進は、吉田松陰にも影響を与え、松陰はその栄誉を称え長歌を詠んだそうです。寧親は数年後、幕府に隠居の届けを出し、その後は俳句などで余生を過ごします。この寧親の隠居により、結果的に秀之進の目的は達成されたことになります。

出典 二戸市立二戸歴史民俗資料館「北方防備の下斗米秀之進(相馬大作)」提供資料                            
芳賀

南部編第30話  日本有数の良馬、南部馬を産出

  • 2013.12.30 Monday
  • 17:21
 

※唐馬の碑がある神社

 南部地方は古来より馬産地として、全国的にも有名です。古くは平安時代に後撰和歌集になど詠まれた尾駮の牧(六ケ所村)や、宇治川の戦い(1184年)で先陣を争った名馬、磨墨(するすみ)と池月(いけづき)は三戸産と七戸産であったともいわれています。一の谷の戦い(1184年)で源義経と崖を駆け下りたという青海波(せいかいは)という馬も三戸産だったともいわれています。(青森県史 資料編 古代1文献資料 P608青森県、三戸町史 上巻P44三戸町)


※唐馬の碑説明版

 南部藩では南部九牧(なんぶくまき)と呼ばれる「野」を九つにわけた藩営牧場を開き、馬産に積極的に取り組みます。とりわけ南部氏の本拠、三戸近郊にある住野野(すみやの)(名久井岳西側中腹から南部町大向・三戸町泉山の一帯)では、永保年間(1504−1521年)の「永保五年馬焼印図」により、古くから馬産が行われていたことが確認できます。牧場には、総牧場管理者として御野馬別当、各牧場の管理者として御野守が置かれます。そのほかに御馬医、御馬責(調教師)などの馬肝入(世話人)が置かれ、手厚く管理されていたことがわかります。(図説 三戸・八戸の歴史 青森県の歴史シリーズP114株式会社郷土出版社)


※道の駅七戸博物館内


 三戸町の馬暦神社境内にひっそりと、唐馬の碑(からうまのひ)が建っています。唐馬の碑は、外国産馬に関しての貴重な資料として県の文化財にも指定されています。享保10年(1725年)、八代将軍・徳川吉宗にオランダ人が献上したペルシャ産の馬「春砂(はるしゃ)」が、南部藩に下賜されました。藩は春砂を住谷野で放牧し、馬の体格を大型化するための種馬として改良を図るも、9歳で亡くなってしまいました。関係者はこれを偲び、三葉の松を植え墓印としましたが、その松の枝がすべて西に向かって伸びたので、馬が母国を慕っているのだと言い、人々は馬の神として崇めるようになります。このため、寛保3年(1743年)、元野馬別当の石井玉葉が唐馬「春砂」の追善のための碑を建立し、馬暦神社の起源ともなっています。(三戸町史 中巻P106〜107三戸町)


※道の駅七戸 馬の像


 牧場の経営管理には、沢山の農民の力が必要不可欠でした。道の駅しちのへにある絵馬館では、見町観音堂と小田子不動堂に奉納された絵馬を見ることができます。絵馬とは、当時の人々の祈りや願いが込められて奉納された、絵が描かれた木の板のことです。この小絵馬は全国的に見ても旧南部藩の寺社でしか見られず、南部小絵馬と呼ばれています。これらの絵馬は、南部地方の庶民信仰を知るうえで質、量ともに優れていたため、重要有形民俗文化財に指定されています。馬に対する愛着は信仰と結びつき、格調高い絵馬が残されています。馬と共に生活してきた農民の良馬産出祈願を目的とした人々の馬を尊ぶ心が窺えます。(絵馬館提供資料 絵馬館観賞用のヒント)

出典 青森県史 資料編 近世4 P394〜396(青森県)
   三戸町史 上巻P43〜45(三戸町)
   図説 三戸・八戸の歴史 青森県の歴史シリーズP114〜115(株式会社郷土出版社)
芳賀

 

南部編第29話 盛岡藩最大の銅山 〜尾去沢鉱山〜

  • 2013.12.29 Sunday
  • 10:53
 
※秋田県尾去沢鉱山

 秋田県鹿角市、ここには日本最大規模の鉱山と呼ばれる尾去沢鉱山があります。尾去沢鉱山の歴史は非常に古く、最初の発見は奈良時代、708年だったと伝えられています。
 天正18年(1590年)、豊臣秀吉が奥州仕置を行い、尾去沢鉱山が盛岡南部氏の所領となりました。尾去沢鉱山は南部藩の金山奉行が金、銀、銅、鉱石などを大量に発見し、繁栄していきました。しかし、鉱業の開発が進むにつれて鉱山の排水の問題が起こり、1624年から1643年頃から、金・銀の産出が急速に減少しました。その代わり、銅の産出が次第に発展していき、1688年から1704年の元禄年間が最高頂に達しました。以来、南部藩の経営から、明治、大正、昭和を経て、非鉄金鉱山の代表的鉱山として日本の産業振興に大きく貢献していきました。  
※尾去沢鉱山模型図

 これまでに掘さくされた坑道の総延長は約700kmにも及んでおり、青森から東京までの距離に匹敵しています。 尾去沢鉱山で採れた銅鉱石は山元で粗錬され、南部藩の粗銅となり、牛を使い陸路で青森県、野辺地町の野辺地港に集積された後、幕府の雇船によって大阪へ廻送されていました。大阪への銅の輸送は、野辺地港が南部藩有数の商港として発展する大きな要因となったのです。 なぜ大阪に廻船する必要があったのか。それは銅を精錬できる業者が各地から大阪に銅を集め、大坂銅吹屋(おおさかどうふきや)で粗銅に混じっている少量の銀を取り出し精銅に加工する為であり、銅貿易商もほとんどが大阪にしかいなかったからです。    
※尾去沢鉱山坑道内

 野辺地港は盛岡藩の日本海航路への窓口として、賑わっていました。野辺地港には常夜燈がありあります。
常夜燈はかつて、毎年3月から10月まで夜ごと灯がともされ、航海の安全を守る灯明台として、野辺地湊を見守ってきました。 夜間は魚油、菜種油を燃料とし、毎夜目印の灯火を照らしていました。施主は、野辺地の廻船問屋野村治三郎、運送にあたった世話人は関西の船主橘屋吉五郎です。野村治三郎は廻船業で財をなした一族です。竿石の正面には「常夜燈」、背には「金毘羅大権現」、側面にはそれぞれ「文政十丁亥歳」「正月吉良日」と刻まれています。現存する石の常夜燈の中では日本最古とされ町指定文化財となっています。現在は常夜燈の役目は果たしていませんが、毎年冬になると「常夜燈まつり」が開催され、祭りの主役となり、風物詩となっています。    
※青森県野辺地町常夜燈

 尾去沢鉱山は昭和53年(1978年)に鉱量の枯渇により閉山となりました。しかし、昭和57年(1982年)には観光坑道として生まれ変わり、平成19年(2007年)には近代化産業遺産に認定され、今に至っています。現在は砂金採りや天然石堀りの体験ができ、鉱石がここに確かにあったことを伝えています。


出典 野辺地つれづれノート P75〜88(萌出忠男)
   野辺地町史 通説編 第1巻P256〜268、P343~345、P707~708(野辺地町)
 
(メガネ)

南部編第24話 三戸南部氏の本拠地を盛岡城に移す

  • 2013.12.28 Saturday
  • 16:43
 南部家二十六代当主で三戸城主の南部信直は豊臣秀吉から「南部内七郡」の所領を安堵されました。しかし、三戸城(現在の青森県三戸郡三戸町)が拠点のままでは、広大な南部氏の所領を統治するには北に偏りすぎているとの問題が発生しました。そこで領内の基盤固めのため、本拠地を不来方(現在の岩手県盛岡市)へ移動し、新しい城を建てる構想が浮上します。信直の嫡子である利直を総奉行として築城が始まりました。(盛岡藩」 第二章 現代書館)
  不来方が候補地になったのは、天正十九年(一五九一年)の九戸政実の乱で活躍した豊臣家重臣の浅野長政が見分し、発案したのがきっかけです。文禄二年(一五九三年)朝鮮出兵のため名古屋に滞在中、信直は秀吉に築城許可を求めたといわれており、この頃から本格的な築城計画が開始されたといわれています。慶長二年(一五九七年)、総奉行を嫡子である利直として築城が始められ、本格的な築城工事が進められました。


 


※盛岡城公園


 盛岡城は北上川と中津川が合流している突き出した丘陵に構築されています。城下建設の一歩として中津川に上ノ橋、中ノ橋、下ノ橋の三橋を架け、上ノ橋と中ノ橋には擬宝珠が付けられています。この擬宝珠は、南部遠江守政行が在京中に、加茂川の橋の擬宝珠を写すことの勅許(ちょっきょ)を得て、三戸城(さんのへじょう)近くの橋に取り付けたものを使用しています。上ノ橋の方には青銅擬宝珠(せいどうぎぼし)18個あり、国指定重要美術品(工芸)となっております。下ノ橋にも青銅擬宝珠が十八個あり、こちらは盛岡市指定の有形文化財となっております。
 


※盛岡城跡石塁


 北上川と中津川が合流している突き出した丘陵に本丸・二の丸・三の丸などを配し、大きな石垣を構築の内郭として築城は進められます。2つの川を外濠として利用したり、城の基礎に地元で豊富だった花崗岩を使用したりといった、軍事的・経済的に優れた築城計画でした。しかし度重なる北上川の氾濫等が発生し、作業は困難を強いられます。築城に当たって、日々2000人以上が工事に従事したといわれています。寛永九年一六三二年(寛永九年)、利直は完成した城を見る事なくこの世を去ります。翌年跡を継いだ南部重直が初入部し、正式に盛岡城への入場となりました。以来、藩政時代を通じて盛岡南部氏の居城となります。(三戸町史 上巻」 第4節118~120p三戸町史編集委員会)

盛岡城下の時鐘は、城下南東部にあたる河南地区の十三日町(現在の南大通2丁目付近)と北西部にあたる河北地区の三戸町(現在の中央通3丁目付近)の二か所にありました。「日影門外時鐘(ひかげもんそとじしょう)」と称した時鐘は現在市指定有形文化財に指定されています。この時鐘は、四代盛岡藩主南部重信(なんぶしげのぶ)の子、行信(ゆきのぶ)により一六七九年(延宝七年)一一月に設置されました。明治維新後に,盛岡城跡の内堀、鶴ヶ池わき下曲輪(したくるわ)の土塁上の現在地に移転されました。その後、1955(昭和30)頃まで盛岡の人々に時刻を知らせ、生活のしるべとして親しまれていました。現在は、610日の「時の記念日」と、元旦の除夜の鐘として年二回,関係者や市民のかたがたにより鐘の音が復活しています。(「盛岡市ホームページ」盛岡市指定文化財 時鐘より抜粋)


 


※盛岡城地図

 盛岡城は1872(明治5)の廃藩置県後、陸軍省所管となり一八七四年(明治七年)には大半が取り壊され、荒廃します。その後公園に整備され、一九〇六年(明治三九)に「岩手公園(盛岡城跡公園)」として 開園し、歴史公園として市民に親しまれています。また、本丸の三重櫓や二階櫓をはじめ、城内に存在した建物や石垣の復元を目指す活動がされているそうです。(「盛岡市ホームページ」史跡盛岡城跡整備基本計画(案))                                              (金さん)


盛岡市ホームページ

南部編第28話 野辺地代官所 〜南部藩最重要拠点〜

  • 2013.12.27 Friday
  • 13:30

 野辺地城は青森県上北郡野辺地町に所在した日本の城郭の一つです。野辺地町市街のほぼ中央、野辺地川の河岸段丘に築かれた中世の城で、別名を、金鶏城(きんけいじょう)といい、江戸時代は南部藩の代官所が置かれました。現在は中央公民館・図書館・歴史民俗資料館・商工会議所・農業協同組合などが建てられており、城跡周辺には「城内」の字名が残っています。駐車場入口の一角に築山風の坪庭があり、そこに「野辺地代官所跡」 の標柱が建っています。代官所は別名御仮屋・御官所・税官所などともいい、標柱の対面の家の裏には堀が残っており、野辺地川へと繋がっているようです。郭跡から野辺地川へは断崖絶壁になっており、川の外側から見上げると、要害堅固な立地にあるのが分かります。


※野辺地代官所跡

 野辺地城の建築年代は明らかでなく、南北朝時代、七戸南部氏の一族、野辺地氏が下北・上北統治のため居住したとされ、康正2年(1456年)に勃発した「蛎崎蔵人の乱」では蛎崎勢の攻撃を受けて陥落したと伝えられています。天正19年(1591年)の「九戸政実の乱」で七戸氏が陥落すると野辺地城は三戸南部氏に接収され、津軽に対する抑えとして慶長3年(1598年)石井伊賀が配され、以降、小軽米左衛門、日戸内膳が城代を務めます。江戸時代に入ると、野辺地城は代官所に改められ、明治4年(1871年)廃藩置県により廃城となります。(野辺地雑記p23〜24萌出忠男)


※野辺地代官所跡全景


 野辺地は、津軽領と境界を接する南部氏にとって津軽方面に対する作戦根拠地として非常に重要な役目を持っていました。当時、津軽から南部までの経路は野辺地経由か鹿角経由しかなかったため、万が一野辺地を失うと下北半島は分断され、田名部地方は極めて不利な状態となります。糠部北方の根拠地は敵の利用する処となり、北方からの脅威にさらされます。また、戦国時代に津軽氏が南部氏から独立し、現在の青森県の西半分が領土となると、南部氏にとって野辺地は津軽領に接する重要な地域となり、江戸時代には代官所や馬門番所(南部領と津軽領との間を通行する人々や物資の出入を取り締まる役所)などの施設が設けられました。野辺地の地は交通の要所で弘前藩との藩境でもあった為、重要視され周辺の中心地となりました。


※野辺地民俗資料館内


 明治元年(1866年)戊辰戦争において、弘前藩との野辺地戦争の際、南部藩兵の拠点でもありました。官軍側の弘前藩と奥羽越列藩同盟側の八戸藩、盛岡藩との間で野辺地戦争が起こると、野辺地代官所は激戦地となりました。双方の銃撃戦の後、弘前藩を敗走させています。


 現在、城跡に建てられている歴史民俗資料館には考古、歴史、民俗に関する資料が展示されていますが、なかでも考古資料「角鹿コレクション」が有名です。これは考古学者の角鹿扇三が、明治30年(1897年)頃から昭和50年(1975年)頃まで生涯をかけて収集したもので、旧石器時代の長者久保遺跡(東北町横沢)の資料によって高く評価されています。そのほか、江戸時代に南部銅などの積出港として繁栄した野辺地湊に関する資料、野辺地町にゆかりの深い最上徳内の資料も展示してあります。(野辺地町立歴史民俗資料館「野辺地町の文化財」提供資料)


※代官所跡土塁
出典 野辺地町史 通説編 第一巻P184〜224(野辺地町)
   野辺地雑記P57〜63(萌出忠男)                               
(サト)

南部編第26話 藩境塚、津軽と南部の境

  • 2013.12.26 Thursday
  • 10:50
 奥州街道のほぼ終着地点にある野辺地町は、弘前藩と盛岡南部藩との境でもありました。柴崎地区、国道4号線沿いにある「藩境塚」は、江戸時代に南部領と津軽領との境界の目印として奥州街道沿いに築かれた塚です。塚の底面直径は約10m、高さは約5mで、南部と津軽にそれぞれ2基ずつ、合わせて4基あることから「四ツ森」とも呼ばれています。築造時期は明らかではありませんが、元禄14年(1701年)、弘前藩と盛岡南部藩で確認した境際絵図には、両藩ともに藩境塚が書かれています。(盛岡市中央公民館蔵 南部・津軽との境際絵図より)
藩境塚
※藩境塚
 奥州街道のほぼ終着地点にある野辺地町は、弘前藩と盛岡南部藩との境でもありました。柴崎地区、国道4号線沿いにある「藩境塚」は、江戸時代に南部領と津軽領との境界の目印として奥州街道沿いに築かれた塚です。塚の底面直径は約10m、高さは約5mで、南部と津軽にそれぞれ2基ずつ、合わせて4基あることから「四ツ森」とも呼ばれています。築造時期は明らかではありませんが、元禄一四年(一七〇一年)、弘前藩と盛岡南部藩で確認した境際絵図には、両藩ともに藩境塚が書かれています。(盛岡市中央公民館蔵 南部・津軽との境際絵図より)
 
 藩境塚の間を流れる「二本又川(境の川)」と烏帽子岳山頂を結ぶ線が境界とされていましたが、延宝元年(一六七三年)、馬門村の新十郎が山中で杣取り(そまどり 山林から木を伐採すること)をしていたところ、弘前藩の山見役に連行され、厳重な注意を受け帰されたと記録に残っています。また、延宝8(一六八〇年)には、黒石の杣夫婦が馬門の山中に小屋をかけ、材木を切り取っていたことから、馬門境役の閉伊口弥五右衛門と飯田源之丞がたびたび引き上げるよう注意したが、それを無視し小湊代官新岡左五右衛門と畑井甚兵衛に書状を送り、杣夫を引き上げさせたと記録に残っています。このように山中の境界があいまいなため、たびたび論争が起こっていたようです。(「野辺地町史」 p276野辺地町史編さん刊行委員会)

 このような問題を解決するために、元禄十二年(一六九九年)に弘前藩、盛岡南部藩共に正保年中の藩境地図を見合わせる事になりました。結果として清水峠から二本又川までの長さが異なっていたり、記載されている山の名前が違っていたなどの問題点があったりしていたそうです。これらの相違点を協議し、縮尺を統一にして修正した新絵図を取り交わしたとの記録が残っています。しかし、それでも境界をめぐっての紛争は収まらなかったため、境界で紛争がおき結局幕府の裁定を仰ぐことになりました。月日がながれ正徳四年(一七一四年)、幕府の裁定は津軽領側の主張をほとんど認める内容でした。論所を入会地(いりあいち)として南部側で毎年銭三貫文(一貫文は一千文で、一〇〇〇枚の一文銭を「さし」という紐(ひも)に通したもの)を入山料として津軽領側に納入することによって従来通り伐採できるようになったと南部領津軽領境墨引絵図写に記されています。この南部領津軽領境墨引絵図写は盛岡城に置かれ、現在は盛岡市中央公民館に所蔵されています。(「野辺地町史」野辺地町史編さん刊行委員会、第六節 藩境) (「野辺地雑記」p21萠出 忠男著)
 
看板
※藩境塚にある覚(おぼえ)

 現在、藩境塚一帯は公園となっており、公園の国道4号線側には「馬門御番所」と書かれた木の門と番所風のトイレが建てられています。その隣には「覚」と書かれた縦2枚の高札が建てられており、番所の取り締まりについて書かれています。

 藩境塚を進み野辺地町の東側に愛宕公園があります。この公園には数々の文人に関わる石碑があります。松尾芭蕉を尊敬する野辺地の俳人たちによって、文政12年(1829年)に愛宕山に建てられた松尾芭蕉句碑があります。
 
「花ざかり山は日ごろの朝ぼらけ」

この句は、芭蕉が貞享5年(一六八八年)に桜の名所吉野山で詠んだものです。江戸時代に始まる俳諧の伝統は明治以降も引き継がれ、明治三六年には青森県内初の俳句同人誌『菅菰』が創刊されています。石川啄木は3度野辺地を訪れています。叔父葛原対月が常光寺住職で、父の一禎も一時身を寄せていたこともあり、昭和三七年に「潮かをる北の浜辺の 砂山のかの浜薔薇よ 今年も咲けるや」という啄木の歌碑が記されています。(「野辺地町ホームページ」県指定文化財参照)

※愛宕公園 松尾芭蕉の石碑
 
                                金さん

出典:
野辺地町史
野辺地町ホームページ
ヤフーブログ『南部藩と津軽藩の境界に築かれた「藩境塚」の巻』

南部編第25話 八戸根城南部氏、遠野・横田城移封される 〜南部利直の陰謀〜

  • 2013.12.25 Wednesday
  • 10:12


※鍋倉城跡

 寛永4年(1627年)、八戸根城南部氏22代・直義は、盛岡藩初代藩主・南部利直から遠野・横田城への移封を命じられました。(八戸市史通史編P140八戸市)
 これは八戸氏の権威と家格により横田城下の不穏を封じることと、藩境を接している伊達藩に対する警護の任にあたることを理由としました。
 利直はかねてから、八戸地方の直轄支配をもくろんでいました。
八戸根城南部家20代当主・直政が急逝し、21代当主を直政の妻とすることを認めたのも、後に利直のめがねにかなった婿を取らせ、自分の意のままに支配しようとしたからで、この策略は直政の妻が髪をおろし、仏門に入り清心尼という尼となったことで失敗に終わりました。(みちのく南部八百年地の巻P104〜P107伊吉書院)



※鍋倉城跡板

 また、利直は森林や鉱山等の豊かな資源と便利な港をいくつも持っていた八戸根城家の所領である下北半島の田名部を手にいれようと、幕府に対し、重臣の本多佐渡守を通じて、「田名部の地は、領主が女であると侮り、悪人どもがけんか口論や刃傷沙汰などのもめごとが続出しているため自分が代わって支配したい」と八戸根城南部家の知らないところで持ちかけ、最終的にはその希望が幕府に認められ借り上げという形で盛岡南部領に編入されるといった経緯もありました。(みちのく南部八百年地の巻P109〜P110伊吉書院)
 遠野へ移封ということになれば、八戸氏の廃絶を意味するため、直義はいったん辞退しましたが、それに固執し過ぎると、一戦交えることになり、幕府がついている利直の思うつぼとなり、九戸政実のように取り潰される可能性もありました。
 そのため、八戸氏の命脈を守るため、泣く泣く従う以外方法はありませんでした。(みちのく南部八百年地の巻P128〜P132伊吉書院)
 遠野移封後、直義は利直のそばに仕えていましたが、寛永9年(1632年)利直が亡くなり、盛岡南部家28代・重信の代には家老職を務め、直義に続く代々の領主は盛岡藩三家老(遠野南部家、中野家、北家)の一人として盛岡城に常勤したため、
遠野には家老を置くことが通例となりました。直義が入城した時は奥の院はむしろ敷きであり、諸士屋敷は28件が散在し、板戸代わりにむしろを下げているだけという荒廃ぶりでした。



※清心尼の墓碑

 城下町の造営事業は直義移封直後から元禄年間(1688年〜1704年)まで続き、延宝2年(1674年)に直義が74歳で亡くなると、事業は2代領主となった嫡子・義長が引き継ぎました。



※付近にいた鹿

 延宝9年(1681年)遠野五町(六日町、一日市町、新町、穀町、裏(仲)町)の町屋敷数は240件弱でしたが、約100年後には608軒にも増えました。これは、遠野六度市における内陸、海産物の交易中継商業の発達によるもので、六度市は「入
荷千駄出荷千駄」といわれるほどの賑わいだったと伝えられています。
 明治元年(1688年)、戊辰戦争が起こり、奥羽越列藩同盟の一員となった盛岡藩が討幕側に敗れると、遠野城下に進軍してきた松本藩兵により、横田城は破却されてしまいました。(平成南部藩ホームページ)


出典:八戸市史通史編(八戸市)、みちのく南部八百年 地の巻(伊吉書院)、平成南部藩ホームページ


 
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南部編第27話 南部氏の代官たち 〜盛岡・八戸藩の独特の行政組織(通制)〜

  • 2013.12.21 Saturday
  • 14:06


※五戸代官所

 南部藩・八戸藩では領内の郷村支配のため代官統治地区を「通」(とおり)と称し、1通(1代官統治区)には藩から代官を配置し、統治していました。(盛岡藩P127〜P128現代書館)慶安5年(1652年)には、47の代官区とし、遠野の南部氏の1区を加え48の代官区がありました。
 通制度は検地が進むにつれ整えられ、享保20年(1735年)には制度が確立され、10郡33通となっていました。その後、藩財政の窮乏により代官所にかかる経費を削減するため、寛政4年(1792年)には25通に減らされました。(盛岡藩P126〜P127現代書館)
 代官所の役割として、検見(※1)立会い・検地の総高吟味・社寺に関すること・宗門改め・牛馬改め・他領者の往来の吟味・犯罪の取り扱いなど郷村にかかる司法・行政・警察権の全てにおける強い権限を与えられ統治していました。(盛岡藩P127〜P128現代書館)
 代官所には代官2人が配置され、任期は3年、半年ごとの交代とし、非番の代官は勘定所に出勤し、藩と代官所との連絡にあたっていました。代官のほかには下役(※2)・物書(※3)・牛馬役(※4)・野馬別当(※5)などが置かれ、必要に応じて特別な役人が置かれていました。



※かつて三戸代官所があった観福寺

 青森県内には2郡5通あり、三戸郡に五戸通・三戸通、北郡に七戸通・野辺地通・田名部通がありました。ここでは五戸代官所、三戸代官所について述べます。
 五戸代官所は文禄4年(1595年)頃、両国支配に乗り出した三戸南部氏26代当主・南部信直が、木村杢之助秀勝に命じて、代官所周辺の町場と一緒に造成させたものと伝えられています。(青森県の歴史散歩P288山川出版社)
 五戸代官所には代官2人のほか下役・帳付・野馬別当・牛馬役などが置かれ五戸通29ヶ村の総石高は約1万4千石(慶安5年(1652年)当時)でした。(五戸町史上巻P207〜P209五戸町)
 明治2年(1869年)には、一時、斗南藩(旧 会津藩)の藩庁となっていました。現在、五戸代官所は平成10年にオープンした「歴史みらいパーク」の中に、文久年間頃に再建され平面図を基に復元され、五戸町立図書館に併設されています。(五戸町図書館歴史みらいパークホームページ 五戸町)



※関根の松

 三戸代官所には、代官2人、下役などの他に植立奉行(※6)・漆木奉行(※7)・御古城掃除奉行(※8)・鷹巣御用懸(※9)・別段廻役(※10)等の特別な役人も置かれていました。
 三戸歴史民俗資料館には藩主から代官にあてた御古城掃除についての書状が残されています。三戸通33ヶ村の総石高は約一万二百石でした。(三戸町史上巻P140〜P147三戸町)
 三戸には野馬別当であった一戸五右衛門が祖先である一戸兵部綱定が藩主から賜った盆栽を屋敷内に植え、その松が今も残されており、「関根の松」として知られています。
 三戸代官所があった場所は、現在、三戸福祉会館が建っており、三戸代官所の門は、現在、町内にある観福寺の山門となっています。


※1 検見:検地の役人が作った検地帳の基準に基づき、毎年の作況を調べること。検見の            指数平均値に一定税率をかけ     て貢租とし、この作業により年貢高が決定します。
※2 下役:代官を補佐し、他の役職を指揮して庶務の整理を掌る役職。
※3 物書:上司の命令を受けて、文案の作成および諸記録をする役職。
※4 牛馬役:馬の改良・生産を奨励し牛馬の生死や、移入売買などに関する管理を行う役職。、
※5 野馬別当:南部九牧を統括する役職。
※6 植立奉行:山野に植林することを掌っていた役職。
※7 漆木奉行:福岡通、三戸通、の漆産地だけに特設された役職。
※8 御古城掃除奉行:本城が盛岡に移ってから、三戸城は「御古城」と呼ばれ、城の修復や、掃除を疎かにしないように特設さ          れた役職。
※9 鷹巣御用懸:鷹狩用の特にハイタカの巣の発見・管理をする役職。
※10 別段廻役:地方目明(めあかし)を指揮して、犯罪人を捕える役職。三戸町と田子町に一人ずつ置かれていました。

出典:五戸町史上巻(五戸町)、三戸町史上巻(三戸町)、青森県の歴史散歩(山川出版社)、盛岡藩(現代書館)
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