南部編第23話 関ヶ原の戦い・上杉包囲戦と南部領

  • 2013.12.24 Tuesday
  • 09:15

 
※南部利直が当主だった花巻城跡

 関ヶ原の戦いは慶長5年(1600年)9月15日、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ヶ原町)にて、徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍との間で行われた「天下分け目の戦い」といわれた合戦です。それにいたるきっかけは、陸奥若松城主である上杉景勝が、徳川家康の上洛要請を拒否し、直江状といわれる、挑発的な返信を送ったことにあります。
 家康はこの返信を読み、上杉景勝の謀反の疑いは確実と判断。大軍を率いて景勝のいる会津の征伐に向かいます。さらに家康は、家康を支持していた東北の大名、最上家と伊達家に上杉家攻撃を要請しました。しかし、その動きを察知した上杉景勝は先んじて最上軍に攻め込みます。家康は南部利直らに、最上家救援を要請し、利直もすぐさまそれに応じて救援に向かうも、家康が会津へ出兵し手薄になった隙をついて、石田三成が徳川討伐のために挙兵します。家康は、やむなく大阪方面に戻り、三成と戦うことになります。
 上杉軍は、残された最上義光軍、伊達正宗軍と戦います。上杉包囲戦です。これは「東の関ヶ原」とも呼ばれています。この「東の関ヶ原」は、徳川軍による石田三成の敗北を知った上杉軍の撤退という結果でおわりました。それよって、家康が全国を平定することが確定しました。
 この合戦で南部利直は、山形で最上義光の加勢の任を与えられていました。しかし、山形出陣で手薄になった南部領の和賀、稗貫で反乱が起こります。和賀の旧領主和賀忠親が、豊臣秀吉に奪われた領地を取り戻そうとしたのです。この出来事は「岩崎一揆」「和賀一揆」などと呼ばれています。利直は、東軍に帰国の許可を得、岩崎一揆の鎮圧をしました。これが、上杉包囲戦での利直の戦果、ということになります。

※復元された西御門
 この和賀忠親をそそのかしたのが、伊達政宗であるという説があります。政宗は、南部陣内で謀反を起こさせ、それを鎮圧するという名目で領土を拡大しようと目論んでいたようです。
 さらに、関ヶ原の戦いに関しては、実は上杉景勝と石田三成は共謀していて、徳川家康軍を挟撃する計画であったとする説や、家康は、石田三成が蜂起することを、予め知っていて、わざと会津討伐に向かった、という説もあります。
 いくつかの説があって、最早何が事実か見当もつきませんが、権謀術数に長けた人間がうまく処世するのだと考えれば、今も昔もたいして変わりはないともいえるのではないでしょうか。
※西御門内部
   
アラン・スミシー
参考文献:
シリーズ藩物語 盛岡藩(現代書館)
青森県史 資料編 近世1 p105・p114(青森県)
みちのく南部八百年 地の巻 p80(伊吉書院)

コラム 関ヶ原の戦いと南部藩

南部編第22話 九戸政実の乱 〜九戸城落城〜

  • 2013.12.23 Monday
  • 13:56

 


※九戸政実の供養碑

 天正十九年(一五九一年)正月、三戸城で毎年恒例の新年参賀(家臣が領主に新年の御礼を申し上げること)を催しました。家臣の将たちは領主にお祝いを申し上げるならわしになっていましたがこの年は九戸政実と九戸派に属する者たちは欠席し、謀反の意志を明らかにしました。そのころ、奥州仕置きにより葛西・大崎氏が没落して多くの浪人が出たので、政実はその浪人らを雇い入れて、九戸の戦力を高めようとしている事が知られました。信直は再三警告しましたが、やめようとしません。南部の領主として黙って見ているわけにもいきませんが、東北も秀吉の配下に入って、惣無事令によって私闘が禁じられていたので勝手に九戸討伐を起こすわけにもいきません。(「物語 南部の歴史」P394〜P395)
 同年三月、九戸方の苫米地城攻撃を皮切りに、九戸政実は五千の兵を動かして挙兵し、周囲の城館を次々に攻め始めました。もともと南部氏の精鋭であった九戸勢は強く、三戸南部側も防戦につとめましたが、南部領内の一揆に乗じて九戸勢が強大化し、更に家中の争いでは勝利しても恩賞はないと考える家臣の日和見もあり、三戸南部側は苦戦します。危機打開のために開いた軍議において、自力での九戸政実討伐を諦め、秀吉に願い出てその力を借りて討伐するのが上策であると判断し、信直は息子・南部利直と重鎮・北信愛を上方に派遣、六月九日には秀吉に謁見して情勢を報告しました。


※九戸神社

 九戸政実討伐と大規模な奥州での一揆鎮圧のため、秀吉は号令をかけて、豊臣秀次を総大将に置き奥州再仕置軍を編成しました。


※長興寺

 関白秀吉は天正十九年(一五九一年)六月二十日、奥州再仕置軍出動の命令を下します。その命を受けた将軍たちはみな、秀吉軍の最高幹部といわれた人たちです。その他に命を受けて、東北の諸将達も、それぞれ兵をひきいて、この討伐戦に参加します。軍の総数は十万をこえる大軍でした。この仕置軍は、三道に分かれて一揆を平定しながら北に進み、姉帯城、根反城、その他を落とし進撃しました。これに抵抗した九戸政実は九戸城に籠もり、九月二日には奥州再仕置軍総勢六万の兵が九戸城を包囲、攻防を繰り返しました。討伐軍は小城と侮り、直ちに攻撃を始めましたが予想とは違い攻撃の度ごとに却って損害を被るだけでした。九戸城は馬渕川、白鳥川、猫渕川に三方を囲まれた天然の要害であり、糧食は豊富に蓄え兵器は完備され籠城の兵は僅か五千といえども、益々勢いが増すばかりです。九戸城は討伐軍の総攻撃にも攻め落とされることはありません。それどころか討伐軍の死傷者は増えるばかりで、軍の規模の大きさも足かせとなりました。結果、兵糧不足となり飢えに苦しんだ者たちは村民に暴力を働き、その上悪疫まで流行しだしました。討伐軍の諸将達は、九戸城はわずか五千人がこもるだけの城だから、数万の兵でこれを攻めたてれば、一日か二日もすれば落とすことが出来るだろうと目論んでいたものの、いざ戦ってみるとすでに八日を費やしても九戸城は落城しそうにもありません。それで各軍の大将たちは、この城は無理な攻撃を仕掛けても、ただ味方を失うばかりであると判断し、しばらくの間は、鉄砲をもって撃ち合うなど、遠攻めにして日を過ごしました。幹部の将たちが集まって、その対策を相談しました。そこで九戸氏の菩提寺である鳳朝山長興寺の薩天和尚を使者にたて「降伏さえすれば一命は助かり、その功により、所領はそのまま安堵されるだろう」と九戸政実に城を明け渡すよう説得させます。和尚は場内に入り諸将連判の降伏勧告の書状を政実に渡し降伏を勧めました。政実の弟・実親は一人反対しましたが、九戸政実は降伏を受け入れて、実親に後を託して九月四日、家臣らと揃って白装束姿に身を変えて出家姿で再仕置軍に降伏しました。しかし助命の約束は反故にされて、九戸実親はじめ城内に居た者は全て二の丸に押し込められ惨殺、撫で斬りにされ火をかけられました。その光景は三日三晩夜空を焦がしたと言い伝えられています。降人となった政実らは豊臣秀次の本営に送られ、秀次の命により斬首され京都でさらし首にされました。こうして、主を引き倒そうとした九戸政実一党は天下を敵として滅亡しました。

                                                    (サト)
出典 「南部町誌 上巻」P414〜P428 南部町、「三戸町通史」P72〜P77三戸町、「田子町誌」P309〜P310 田子町
 

南部編第21話 九戸政実の乱 〜家督相続争い〜

  • 2013.12.22 Sunday
  • 13:55

 

 
※九戸城の図

 南部氏二十四代当主・南部晴政には男子が無かったため、石川高信の子である信直(晴政にとり従兄弟)を長女の婿養子として三戸城に迎え世子としました。やがて、晴政に男子(後の南部晴継)が生まれると、晴政は信直を後継者とした事を悔やむようになります。更に信直の妻(晴政の長女)が死去したことにより、両者の仲はますます険悪になります。信直の事を快く思わなくなった晴政に「信直は晴政の事を怨み仇と思っている」と告げ口する者も居たといいます。晴政はこれを聞いて信直を憎み、折を見て殺そうと思うようになりました。しかし、剣吉城主・北信愛(きたのぶちか)は、領主としての器量をそなえた信直の不幸を痛ましく思い、八戸政栄(根城南部家十八代)と申し合わせ、信直を剣吉城に匿います。晴政はこれをねたみ、軍を率いて数回剣吉城に攻め寄せますが、軍を率いた八戸政栄が、双方の陣の間に割って入り和睦を取り持ちました。晴政はこの後も、川守田毘舎門堂に参詣した信直を襲い殺そうとしますが、危機を感じた信直は跡継ぎを辞退し田子城に帰ります。信直は後難を恐れ八戸政栄に助けを求めました。政栄が信直を八戸根城に数年かくまった事により、晴政の怒りはつのりますが、時節を待つうちに晴政は病死してしまいます。(「南部の歴史 中世編」P324〜P325伊吉書院)


※九戸城跡

 天正一〇年(一五八二年)、晴政の後を継いだ南部氏二五代晴継も十三歳の若さで死去(病死とも暗殺ともいわれる)すると家督争いが起こります。南部家の一族家臣が誰を家督とするかについて三戸城で会議を開きました。会議の大勢は二派にわかれ、一派は南部氏一門の中では第一の実力者である九戸政実の弟で晴継の姉婿にあたる九戸実親(さねちか)を推し、他の一派である北信愛らは、晴政の従兄弟で、晴継の長姉の婿である信直を推しました。議論は紛糾し、実親を推す空気が強くありましたが、北信愛が事前に一族の有力者・根城南部氏の八戸政栄を調略し、信直を支持したので、後継者に信直が決定します。信直は北信愛の手勢に守られて田子から三戸城に入り二六代の当主となりました。九戸政実としては内心、自分が南部氏の領主となるか、または弟の実親を領主にたてて、九戸一族の手により南部領内の支配権を握りたかったと考えていましたが結果は思いもかけず、北信愛の強行意見により、二六代当主には信直が任命されました。その後政実は、同じ南部氏の中でも、自分を支持する派閥の勢いを強化し、ことあるごとに信直に対抗するようになりました。信直の家督相続をめぐる南部一族の分裂は相続後もおさまらず、八戸政栄、北信愛等は信直を支持し、櫛引清長、七戸家国、久慈政則等は九戸政実を支持し、対立は深刻化しました。この南部一族の分裂に乗じ家臣の大浦為信が反乱を起こします。その時も九戸政実は信直に協力せず反信直の姿勢を示していました。この相続争いにより、やがて九戸の乱が引き起こされるのです。


※九戸城二の丸跡

                                                     (サト)
出典 「南部町誌 上巻」P414〜P428 南部町、「三戸町通史」P72〜P77三戸町、「田子町誌」P309〜P310 田子町


南部編第18話 北信愛(きた のぶちか)

  • 2013.12.19 Thursday
  • 11:01

※熊野神社

青森県南部町剣吉に剣吉城跡があります。 築城時期は不明で、『奥南旧指禄』によると、三戸南部氏3代・時実の四男、政実を祖とされています。 北信愛(きた のぶちか)は大永3年(1523年)に剣吉村で生まれました。 三戸南部氏一族の武将であった父、致愛(むねちか)は永禄中(1558〜1569年)に死亡し、信愛が剣吉城の跡を継ぐことになりました。 信愛は物事を恐れず、智謀に優れ、武術では特に弓が優れていたそうです。


※神社内

信愛は、南部利直の父、初代盛岡藩主・南部信直とも深い関わりがあります。 信愛が剣吉城の城主をしていた頃、24代当主・南部晴政に後継者がいなかったため、婿の信直が跡継ぎに決まっていました。ところが、晴政に跡継ぎとなる男の子が誕生したため、信直と不和になりました。すでに、妻も他界していたため、信直は跡継ぎを辞退し、田子館にもどりました。しかし、晴政は可愛い我が子の身を案じ、何度も信直を殺そうとしたそうです。不憫に思った信愛は信直を剣吉城に匿(かくま)いました。これを知った晴政はますます怒り、剣吉城にはいってきたため、北信愛も止むを得ず出兵することになりました。しかし双方の間に根城南部18代・八戸政栄が入り、和解を進め、その場は収まりました。(剣吉城主・北信愛 P9〜50)


※神社内看板

その後、25代晴継も幼くして死去。の働きかけにより信直は、26代当主となります。そこから南部信直が活躍していき、安東氏との戦いに勝利し、津軽地方を手に入れました。  しかし、16世紀後半になると、大浦為信(津軽為信)が独立の動きを見せ、浪岡城の北畠氏を滅ぼし、石川城の石川高信(南部信直の父)を討ちました。 為信の行為は、豊臣秀吉が発した大名間の私戦を禁止した「惣無事令」に違反したものでしたが、石田光成を介して秀吉に名馬と鷹を献上し、津軽三郡と合浦一円の所領を安堵されました。

一方、南部信直は前田利家を介し、為信は惣無事令を違反した逆徒であると秀吉に訴えたが処罰されることはなく、信直の訴えは退けられました。 そして信直も天正18年(1590年)に小田原征伐の際に為信から遅れをとりましたが、秀吉から朱印状を受けました。  こうして南部信直も南部7郡(糠部、閉伊、鹿角、久慈、岩手、志和、遠野)の領主となり、地位を高めることに成功しました。 それでも、信直に従おうとしない人々はまだまだ多く、信直の苦悩は続いていくのです。(つがるの夜明けP172〜181)

出典 剣吉城主・北信愛 P9〜50(名川町歴史研究会)
   三戸通史P72〜73(三戸町)
   南部町誌 上 P413 (南部町)
   つがるの夜明けP172〜181 (陸奥新報社)

コラム               
メガネ
 

南部編第17話 田子城主・南部信直南部氏当主となる

  • 2013.12.18 Wednesday
  • 09:39
 

※田子館ジオラマ

 青森県田子町(たっこまち)。町の中心街を望む高台に町立田子中学校があります。その場所に、かつて田子城があり、南部氏第26代当主・南部信直(のぶなお)の居城として知られています。築城時期は不明ですが、三戸南部氏が糠部郡(ぬかのぶぐん)に入部した際に家臣となった在地勢力の佐々木氏が築城したとされています。


※田子中学校
 田子城は、人工的に作られた堀によって牛尾館(うしおたて)と佐々木館(ささきたて)の二つの郭からなり、北からは自然の堀である田子川、南は斜面が急で険しい丘で守られた要害です。さらに牛尾館は堀によって二つに分けられ、本丸に相当する大館と小館に分けられています。天正期、牛尾館には信直が、佐々木館には佐々木惣左衛門(そうざえもん)が居住していたとされています。牛尾館は三戸南部家二十代当主・信時が隠居所としてから、津軽郡代となった南部光康(みつやす)、石川城主となった南部高信(たかのぶ)、二六代当主となった南部信直が居館としていました。二七代当主となった南部利直(としなお)はこの館で生まれました。

※南部信直の居城跡
 現在、中学校の敷地になっている牛尾舘は、大館と小館に二つに分ける谷は埋められてグランドとなり、城跡はほとんど造成によって破壊されています。わずかに牛尾館と佐々木館の間の堀跡が残っているのみです。詳しい廃城時期は不明ですが、南部信直が南部宗家の家督を継承して三戸城へ移った頃といわれています。(「田子町誌 上巻」P337〜P344 田子町)

※田子館地図
 信直は田子城主・南部高信の長男として生まれ、なかなか世継ぎに恵まれなかった南部宗家である三戸南部氏二四代晴政(はるまさ)の養子となります。永禄十一年(一五六八年)信直が二十三歳の時、秋田愛季(ちかすえ)との鹿角合戦に世継ぎとして出陣し活動を始めますが、何年かのちに晴政に世継ぎの男子・晴継(はるつぐ)が生まれ、我子に家督を譲りたいと思い始めたため、信直が邪魔になり、暗殺を企てるようになりました。身の危険を感じた信直は、後継者を辞退しましたが、それでも外出の際には晴政の家臣に度々襲われ、剣吉城主・北信愛(きたのぶちか)や八戸根城の八戸政栄(まさよし)などのところに身を隠したりするほどでした。南部町誌によると、晴政亡き後、当時十三歳の晴継が二十五代当主に就きますが、先君・晴政の葬儀の際、喪主を務めた晴継は菩提寺・三光庵から帰る途中、何者かに暗殺されてしまい、宗家三戸南部氏が不在の事態となりました。(「南部町誌 上」P413〜P414 南部町)一族の会議で跡継ぎは改めて田子城主となっていた信直と決まりましたが、これを不服とした有力一族九戸政実(まさざね)が信直と対立し、一族を二分する内乱となります。さらには、当時の関白・豊臣秀吉と日本中の大名を巻き込んだ「九戸政実の乱」へと発展していくのです。                                                                                       (サト)

出典 「三戸町通史」P72三戸町

 

南部編第16話 三戸城 〜三戸五ケ城〜

  • 2013.12.17 Tuesday
  • 11:27

 


※三戸城跡

 三戸城には、二四代晴政から二五代晴継、二六代信直、二七代利直まで四代七十数年の間、南部氏の領主が糠部を守っていました。天文八年(一五三九年)に家臣・赤沼備中の放火によって焼失した聖寿寺館(本三戸城)には、初代光行が平良ケ崎城を建ててから、二四代晴政までが居を構え、その間には十三代守行・十四代義政・二十代信時らが大いに活躍し、北奥羽に輝かしい南部氏の業績を残しています。しかし、長い歴史の中では、三戸南部氏にとって非常に苦しい時期もありましたが根城南部氏の当主、南部師行らの活躍により南部氏苦難の期間も四十数年で終える事ができました。その後、糠部はもちろん、津軽や岩手県中部、秋田県の東部にまで支配地を拡げていき、二四代晴政の時代になってからは、再び南部氏は栄える事となるのです。(「物語南部の歴史中世編」P301 伊吉書院) 


※三戸城

 もともと南部氏には南部町にある聖寿寺館(本三戸城)の他に、平良ケ崎城、馬場館、大向館、三戸町の要害堅固な三戸高城(留ケ崎城)などがあったとされています。「三戸五ヶ城」と呼ばれたこれら五つの城が互いに連絡を取り合い、聖寿寺館や平良ケ崎城を守っていたと思われます。


※南部利康の霊屋

 聖寿寺館(しょうじゅじだて)は、現在城山公園となっている三戸城が築城される以前は三戸城として、南部氏歴代の居城でした。三戸五ヶ城などの南部氏ゆかりの館跡の中の中心的な館で、天文八年(一五三九年)南部晴政に恨みを抱く家臣・赤沼備中の放火により館が焼失した際、同時にたくさんの古文書も焼失し、南部氏の歴史が伝承のみとなってしまいました。その後、現在の三戸城に移り、聖寿寺館は廃城となったとされています。平成六年(一九九四年)より本格的な発掘調査が行われ、当時の文化に関する物が多数出土されています。「史跡 聖寿寺館跡」は「聖寿寺館跡本体」のほかに、南部氏の菩提寺のある「三光寺地区」、氏神である「本三戸八幡宮地区」の三地区で構成してあり、その歴史的重要性が認められ平成十六年九月三十日に国の史跡指定を受けました。


※三戸城追手門跡

 聖寿寺館跡の北側に位置している三光寺は、当時の南部氏の菩提寺である聖寿寺、東禅寺、三光庵のうちの一つである三光庵が前身で、南部氏の盛岡移転の頃には、三光庵のみが菩提寺として残り現在に至ります。境内には南部二六代信直夫妻の墓所(南部町史跡)、南部二七代利直の霊屋(青森県重宝)、利直の四男利康の霊屋(国重文)、南部二代実光の墓所などがあります。
(サト)
出典 「重要文化財 南部利康霊屋 南部氏と三戸」P39〜P43 南部町教育委員会


 

南部編第15話 三戸城  〜本三戸城焼失〜

  • 2013.12.16 Monday
  • 11:26
 



※三戸城跡

 三戸城は南部氏の宗家である三戸南部氏の本拠地であり、二四代・南部晴政(なんぶはるまさ)が築いた城です。
 晴政は素行上に難点があり、周囲からの評判は芳しくなかったとされていますが、叔父で勇将として有名な田子城主:南部高信などの補佐と、戦陣における活躍もあって、岩手・下北・鹿角・津軽などを平定し、南部氏の家運を大いに開いた功績もある人物です。(「三戸町通史」P67〜P68 三戸町)
 城は領内全般から「三戸城」と呼ばれていましたが、三戸地方では「留ケ崎城」(とどめがさきじょう)や「三戸高城」(さんのへたかじろ)とも呼ばれ、また山城であったため、一般には「城山」(しろやま)と呼ばれ親しまれて来ました。大正4年に三戸町長:北村芳太郎が、城が糖部郡の鎮めであった事と、城跡に糖部神社を祭るところから、南部氏の了解をうけて命名した※1雅名「糖部城」とも呼ばれます。(「三戸城 改訂版」P1〜P2 三戸町観光協会)



※聖寿寺館跡 看板

 天文八年(一五三九年)、後に本三戸城(もとさんのへじょう)と呼ばれる聖寿寺館(しょうじゅじだて)が晴政に謀反を企てた家臣・赤沼備中(あかぬまびっちゅう)に放火され焼失する事件が起きます。赤沼備中と奥瀬安芸が領界に関して争い、晴政に裁き を求めました。晴政は赤沼備中の主張は少しも聞き入れず、一方的に奥瀬安芸を支持するありさまでした。しかも美人として評判の高い赤沼備中の妻を、しばしば城内に招き酒宴にはべらせ寵愛する始末だったそうです。怒った赤沼備中は、弟:七郎と共謀し、風の強い夜、城に忍び込み放火しました。この時、重要書類の入った皮籠(かわかご)二つを取り出しただけで、伝来の重宝古文書はことごとく焼失してしまったといいます。その後、放火した赤沼備中は、奥瀬安芸を切って馬で城外に逃れましたが、諏訪の平で討ち取られます。この火災の後、新たに三戸城を築き移ったとされています。(「南部町誌 上巻」P411〜P412 南部町)
 三戸城は標高 一三〇mの独立丘陵に築城された山城で、両側には馬淵川と熊原川が外堀に見立てられ、両川が浸食した岩壁は天然の要害を呈していました。(「三戸町史 上巻」P104 三戸町)

 

※馬場館

 天正十九年(一五九一年)、南部信直は同族の九戸政実の乱を豊臣秀吉軍と共に平定すると、九戸城を福岡城と改称し居城としました。三戸城は九戸一揆平定後、奥州仕置軍を率いた蒲生氏郷らにより石垣を持った城に普請され、本丸に三層三階の御三階櫓が上げられたと考えられています。大きさは南東が四〇〇m、西南が一五〇〇mの規模を誇り、九戸の乱以後の大規模な改修で石垣や三階櫓、藩庁などが設けられました 三戸や九戸は南部藩領内の北辺に寄りすぎていることもあり、 本拠を岩手郡不来方(いわてぐんこずかた)に移すことになりました。南部利直の時に盛岡城を居城とし、利直の子南部重直の時代に完成しました。それより三戸城は貞享二年(一六八五年)からは代官が常駐して、城の名も三戸御古城と呼ばれるようになりました。



※三戸城周辺

 現在、三戸城跡は城山公園として整備され、山上には昭和四二年(一九六七年)に「温故館」(おんこかん)という三層四階の模擬天守が築かれました。また、遺構として※2搦手門(からめてもん)が法泉寺の山門として、表門が龍川寺の山門として、代官所門が観福寺の山門として、それぞれ移築されています。
※1雅名(がめい) 物の風流な呼び名。詩歌などで用いる。
※2搦手門(からめてもん)城門の一つで、大手門に対して開かれる搦手口の門。
                                                     (サト)

 

南部編第19話 南部信直の一生

  • 2013.12.15 Sunday
  • 15:51
 



※三戸城跡

  南部氏を再び甦らせた南部氏第26代当主・南部信直は戦国時代から安土桃山時代に活躍した武将です。天文15年(1546年)、信直は南部家第22代当主・南部政康の次男・石川高信の庶長子(側室の子)として岩手郡一方井で生まれます。従兄弟である南部氏第24代当主・南部晴政に男子が無かったため、その長女の婿となり、養子として三戸城に迎えられた信直。しかし元亀元(1570年)、晴政に実の子供・南部晴継が誕生すると、次第に晴政から疎まれるようになり、信直も身の危険を感じ、天正4年(1576年)には養子の座を退き、田子城に引き籠ります。



※田子城復元図

 天正10年(1582年)、晴政が亡くなり晴継が第25代当主となります。しかし同年、晴継は謎の暴漢集団により暗殺されます。この事件には信直が暗殺したとの説もあります。しかし近年では、信直によって内戦が引き起こされた結果、晴政親子が攻め滅ぼされたともいわれていますが、その真偽はわかっていません。晴継の跡継ぎとして、一族の九戸政実の弟・実親を推す意見を抑え、南長義や北信愛から支持された信直が、南部氏当主第26代当主を継承することとなります。このことを九戸政実は恨み、南部家中は不穏な状態が続きます。



※九戸政実の乱の巻き絵

  天正14年(1586年)、信直は高水寺斯波氏の当主・斯波詮直を滅ぼし、勢力を拡大します。その翌年には北信愛を代理にたて、加賀の前田利家に対し、豊臣政権下に従うことを告げます。天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣して所領を安堵されます。小田原征伐後、秀吉が奥州仕置で遠征した際には、浅野長政と共に先鋒を務めます。九戸政実が起こした反乱では、秀吉の援軍を得て鎮圧し、政実や九戸実親らを処刑しています。天正20年(1592年)の朝鮮出兵では、秀吉に従って肥前名護屋城に参陣するも、朝鮮には渡らず、帰国します。



※盛岡城内

  肥前から帰国した信直は、盛岡に居城を定め、築城に着手し、領内の基盤を固めるために集中します。九戸の乱後、南部氏は伊達政宗と領地を隣接することになり、盛岡への本城の移動は、政宗の侵略に対する防備であったといいます。慶長4年(1598年)、盛岡城の完成前に、福岡城(九戸城)で亡くなります。青森県三戸郡南部町の三光院では、信直夫妻の墓をみることができます。信直の跡を継いだ長男・利直は初代盛岡藩史となり、その血統は受け継がれていきます。
 
出典 青森県史 資料編 近世1 近世初期北奥の成立と北方世界P29 P100(青森市)
   田子町史 上巻P304〜311(田子町)
 
芳賀

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