南部編第10話 足利将軍と南部氏

  • 2013.12.11 Wednesday
  • 15:45
 


※南部師行像

 鎌倉幕府滅亡後、建武2年(1335年)と延元2年(1336年)の二度にわたり、根城を拠点とする南部師行の軍勢は、国府の将軍・北畠顕家の伴として、後醍醐天皇に敵対する足利尊氏の討伐に出陣しています。尊氏は建武新制を行った後醍醐天皇に背きます。新政府に不満を持つ者を集め、京都を占領しようとし、さらには自ら将軍になろうとします。しかし反逆者とされるのを避けるため、後深草天皇の曽孫・光明院を天皇としてたてたのが北朝の始まりです。一方、公家統一を願う御醍醐天皇は吉野(奈良)に朝廷を開き南朝政権をたてます。こうして、朝廷は京都と吉野に分かれ、公家も武士も二手に分かれて60年間近く争うこととなります。これが世にいう南北朝時代です。

 北畠顕家率いる奥州軍は、一度目の遠征では、新政府に背いた足利尊氏を、京都から九州へ追い払うことに成功しました。顕家はこの功績からわずか16歳で陸奥鎮守府大将軍に任じられています。しかし、九州で力をたくわえた足利勢は、大軍で京都に攻め入ります。そこで南朝方は再び奥州軍へ出動を命じます。延元2年(1336年)の夏、南部師行は、糠部の精鋭2千余りを引き連れ、顕家と共に足利軍を迎え撃つために出陣します。京都を目指して進む道の途中には、至る所に足利軍に心を寄せる敵がいました。前の敵を倒せば、さらに新しい敵が現れ、一度敗れた敵が後ろから追撃してくるという状態でした。そして一年近くも各地で戦を繰り広げた結果、大阪の堺浦の南、石津川のほとりで、部下108人と共に、壮絶な最後を遂げました。   


※南北朝時代の戦のルート

  最後の最後まで総大将の顕家と行動し、忠誠を尽くした八戸根城の城主・南部師行。師行は奥州を出発する前に遺言を残しています。「この度の上洛は厳しく、おそらく自分は討死するだろう、しかし自分が戦場の露と消えても、悲しまず、節操を曲げずに忠節を貫徹したことを喜んで欲しい。そして、自分達南部一族が奥州に多くの土地を得られたのは顕家と帝の恩恵があったからこそで、今後どんなことがあっても敵の足利軍に寝返ってはならない。」師行の子孫はその遺言を守り、政長、信政、信光、政光と5代に渡り、南朝方への忠誠を守り続けたのです。 (歴史と伝説 南部物語 p57 伊吉書院)
  
 大阪の天王寺駅近くの阿倍野地区には、顕家を祀る阿倍野神社があり、その拝殿の側には、師行をはじめとする戦死した忠魂を祀る功の宮があります。また、堺市の石津には、川沿いの小さな森の中に「源顕家、南部師行」と二人の名前が刻まれた、石の五輪塔が建てられています。二人の戦死した場所に建てられた供養塔です。一方、八戸の根城本丸跡では、毎年、慰霊祭が行われています。これは甲斐国からこの地に赴き城を築きあげ、その後大阪で戦死した根城の城主・南部師行を偲び、お祀りするものです。

出典 八戸市史 通史編P104〜110(八戸市)
   根城築城六百五十年記念誌 八戸根城と南部家文書P142〜173(八戸市)
   物語 南部の歴史 中世編P154〜175(伊吉書院)                                
  
芳賀
           

南部編第11話 七戸城

  • 2013.12.10 Tuesday
  • 16:00
 南部氏の祖である南部光行から根城南部系として代目実長、代目実継、三代目長継、四代目師行、代目政長、そして六代目信政、七代目信光、八代目政光となります。七戸城の築城年は不詳ですが南部師行の弟である南部政長が南北朝時代に築いたのが始まりと伝えられています。南部政長は、鎌倉攻めに功を立てたことにより、当地を与えられたといいます。以後七戸城は南部氏の居城として維持、されていくことになり、七戸南部氏として周辺地域の中心となったそうです。師行から政光までは終止朝廷側についていました。糠部地方には工藤氏や横溝氏など朝廷側に従わない者がいたのですが師行が平定し、北畠顕家にその功を賞されています。
七戸城
※七戸城跡 ( 現在は七戸神明宮となっている。)

 南部政光(なんぶまさみつ)は六代目南部信政(なんぶのぶまさ)の二男として生まれます。祖父である南部政長(なんぶまさなが)から七戸を配分され七戸城に居城、病弱な根城城主といわれている兄の信光と共に糖部の治安維持を行っていました。(「七戸町史」p229 七戸町史刊行委員会より)
 信光が代々領有していた甲斐の波木井(現在の山梨県)に帰った後、糖部と津軽の管理は政光が中心となって行われました。しかし、1372年(文中元年)政光も波木井へ行く事となります。信光が家督を譲ったためだといわれており、政光がいなくなった間は糖部に南部政持(なんぶまさなが 政光の祖父である南部政長の子)をおいたと「東北太平記」に記されています。


 一三九二年(明徳三年)南朝の後亀山天皇が皇位を北朝の後小松天皇に伝え、南北両朝が合体したので政光は甲州を退去しました。そして奥州に下り、根城に住んだのですが晩年に兄である信光の長男である長経に譲り、政経自身は七戸に退隠したといわれています。その後、奥州仕置きの際、三戸南部氏の家臣という位置づけとなったことを不服として天正十九年(一五九一)の九戸の乱に加担、七戸城は上杉景勝軍の攻撃を受けて落城後廃城となり、当時の城主七戸家国が斬首され七戸氏は滅亡することとなります。七戸地方は南部藩主信直の直轄地となり、代官として横浜左近がおかれたと「南部大膳大夫分国之内諸城破却書上」に記されています。
 
 七戸町役場近くにある、七戸城跡に神明宮があります。神明宮は応永3年(一三九六年)に政光によって建設されました。案内板によると「根城南部八代藩主政光の勧請により新町に創建、南部氏を始め七戸管内一円の総鎮守として広く崇敬信仰されてまいりました」と書いてあり、七戸城の由来が分かります。城は作田川が高瀬川に合流する地点の北方の丘陵に築かれています。(神明宮 案内板)    

 神明宮が建設された年と同じ応永3年(一三九六年)に南部政光が長慶天皇の菩薩を弔うため、見町観音堂(みるまちかんのんどう)を創建しました。現在のお堂は徳川末期頃の建造と思われ、正面3間、側面3間の宝形造(ほうぎょうづくり)、茅葺きの仏堂は、県内では数少ない近世の三間堂(さんげんどう)となっています。


見町観音堂
※見町観音堂
​ 観音堂に奉納されていた絵馬・羽子板・読経札・称名念仏札・納経札や、参詣や寄進に関係する巡礼札・棟札などは美術館に常設展示されています。なかには近世初頭の紀年銘をもつものも多い事から重要有形民俗文化財に指定されており、道の駅七戸にある美術館(七戸町立鷹山宇一記念美術館内の絵馬館)にて見る事ができます。 

絵馬
※見町観音堂前「絵馬の里」

現在、七戸城二の丸部分が柏葉公園として整備されています。七戸町の憩いの場となっている七戸城は、南部氏のルーツを考える上で重要である事が分かります。                                                    (金さん)

南部編第9話 後醍醐天皇の奥州統治と南部師行

  • 2013.12.09 Monday
  • 10:33

 南部師行が根城に根を下ろした背景を知るためには、後醍醐天皇のストーリーから始めるのが分かりやすいと思います。


※根城の堀

 元弘3年/正慶2年(1333年)、後醍醐天皇の手によって鎌倉幕府が滅ぼされます。
 そこに至る過程に、後醍醐天皇の並々ならぬ執念が感じられます。元亨4年(1324年)には倒幕のための蜂起計画が幕府側に漏れてしまい、側近の日野資朝や日野俊基などが処罰されました。いわゆる、正中の変です。さらに、元徳3年(1331年)に、またもや討幕計画が事前に発覚。後醍醐天皇本人が隠岐島へ流されます。それでも諦めない後醍醐天皇は、その2年後、隠岐島の脱出に成功し、隠岐島に近い伯耆(現在の鳥取県付近)で挙兵します。
 
そして、この執念がついに結実します。これを追討するために、幕府の命令を受けて上洛した足利高氏(のちに尊氏となる)が、幕府に反旗を翻し、一転、倒幕のために挙兵し、六波羅探題を攻め落とします。


※主殿内の広場

 それと時を同じくして、新田義貞が上野国(現在の群馬県付近)で挙兵し、鎌倉を攻め落とします。いわゆる、元弘の乱です。これにより、鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐天皇による天皇親政、建武の新政が始まることになります。
 しかし、北条家を支持する残党がすべていなくなったわけではありませんでした。特に、東北地方は、残党が多く、幕府滅亡のあとも目を光らせておく必要がありました。
 
そこで後醍醐天皇は、皇子義良親王を陸奥に遣わし、さらにその補佐役として、北畠顕家を陸奥守に任命し、多賀の国府に置くことにしました。
 
顕家に従って、この奥州の統治に参加することになった者の中に、代々幕府へ中立の立場をとり、倒幕運動に参加し、後醍醐天皇の信頼を得ていた、南部師行がいました。


※根城の主殿

 広大な奥州では、国府から離れた地方まで目が行き届かない。そのため、南部師行が北奥羽地方を任されることになりました。南部師行は、建武元年(1334年)に北奥羽地方の本拠地として、八戸に根城を築城し、入城しました。 根城とは、「天皇に従わない者を討伐するための根の城」という北畠顕家から南部師行への言葉が由来になっているそうです。
 
南部師行は、根城での国代としても十分に活躍しており、北条残党と安東一族が結託して、大光寺城、持寄城に籠城した際も見事に攻略し、武功をあげています。甲州(現在の山梨県)の地頭から始まり、北奥羽統治を担うまでになった南部師行は、見事にその重責を果たしました。

アラン・スミシー

参考文献
青森県史 資料編 中世1 p43(青森県)
みちのく南部八百年 天の巻p104~p113(伊吉書院)

コラム 後醍醐天皇の奥州統治と南部師行

南部編第8話 根城南部氏の出自

  • 2013.12.08 Sunday
  • 14:21
  三戸南部氏初代・南部光行は、奥州平泉の藤原氏を破った手柄により、源頼朝から北東北一帯を賜ったと伝えられています。
 


※根城広場入口


 正慶2年/元弘3年(1333年)、北畠顕家は、後醍醐天皇より陸奥守に任じられ、義則親王(後の後村上天皇)を奉じて陸奥国府に赴任します。このとき、光行の子孫・南部師行もこれに従い奥州の地へ入ります。師行は顕家より国司の代官(糠部奉行)に任じられ、元弘4年/建武元年(1334年)、南朝方の拠点の一つとして根城を築いたといわれています。根城は、南北朝時代から江戸時代初頭までの約300年間、八戸の中心でした。以来、この根城を本拠とした南部氏の系統は、「根城南部氏」(または八戸氏)と呼ばれるようになりました。

 南部家の系統は複雑に絡み合っています。一足早く糠部に来て三戸に城を築いたと伝えられる南部光行の子孫を「三戸南部氏」というのに対し、南部実長から始まり八戸に根城を築いた南部師行の子孫を「根城南部氏」と呼びます。三戸南部氏と根城南部氏の関係は、本家と分家の関係になります。

 


※南部師行像

 南部光行と一族が奥州へ向かう際、出身地の甲州は、光行の三男・実長に託されます。根城南部氏の始祖・実長は、父光行から波木井郷飯野御牧を分与され、波木井(山梨県身延町)に移り、波木井六郎実長と称しました。実長の子、二代実継から八代政光に至る時代は、鎌倉幕府の衰退、二度の元寇、幕府滅亡、室町幕府の成立、南北朝の争乱とその統一という激動の時代で、根城南部氏の一族は、これらと深く関わりました。(根城ものがたりP12〜13デーリー東北新聞社)

 元亨2年(1322年)、津軽の安藤氏一族の乱が起こると、無力の幕府はその鎮定を二代・実継に依頼し、子の長継を奥州へ出兵させます。長継は、子の貞継を連れて出陣・参陣しています。長継は嘉暦3年(1328年)までその任務にあたり争乱を解決しました。これが、波木井南部氏の奥州進出の糸口となります。

 実継・長継親子は、倒幕の戦いの中で、元弘2年/正慶元年(1332年)に実継が幕府軍に捕らえられ斬刑に処され、長継は、その後は南朝の陣営に加わり、正平7年/観応3年/文和元年(1352年)に北朝軍との戦いで戦死しました。(「根城ものがたり」P34〜37デーリー東北新聞社)

 


※根城模型

 師行は、三戸南部氏四代政光の弟・政行の子として生まれますが、長継の養子となって四代を継ぎます。師行は、元弘3年(1333年)、新田義貞の倒幕挙兵の招きを受けましたが、自らは甲州にあって動かず、奥州から兄・時長、その子行長、師行の嗣子・政長を参加させます。楠木正成など反幕府軍討伐のため、幕府軍の主力を率いて西上した足利尊氏は、謀反して京都の六波羅探題を覆滅しました。一方、政長等の加わった義貞軍は、鎌倉幕府を滅ぼします。師行は、幕府滅亡後八戸に根城を築き、その後の波木井南部氏の根拠地とし、八戸南部氏が誕生しました。やがて、南北朝時代にはいると、師行は弟・政長を根城に残し、後醍醐天皇につき足利尊氏方の軍勢と戦いましたが、延元3年/建武5年/暦応元年(1338年)に和泉国石津で戦死しました。この年、足利尊氏は征夷大将軍となり、室町幕府が成立します。師行が戦死した後、政長が根城南部氏の五代目を継ぎ、糠部郡を支配しました。

 延元4年/暦応2年(1339年)、政長に尊氏は「所領の事望みに任すべし」と書状を送り、帰降を勧めますが政長は応じませんでした。さらに政長は、これを無視したばかりか、津軽の足利方の曽我氏を抑え、一方では岩手の西根に出兵し要塞を構えました。興国2年/暦応4年(1341年)、足利尊氏の根城攻略と政長追討命令が下り、興国3年/暦応5年/康永元年(1342年)根城は曽我勢に包囲されましたが、政長は陣頭に立って敵の本陣に切り込みこれを破ります。この政長の奮戦は、退潮を続ける南朝方の軍事行動の中で一段と際だったもので、後村上天皇は大変喜び、褒美として太刀と甲冑を政長に授けました。(根城六百五十年記念誌 八戸根城と南部家文書P178〜184八戸市)

 正平5年/貞和6年/観応元年(1350年)、政長は、六代信政が政長よりも先に亡くなっていたため、根城を中心にした八戸を信政の長男信光に譲り、七戸を信政の後家・加伊寿御前に譲り、亡くなります。祖父・政長の死により、根城南部氏七代目を継いだのは信光でしたが、奥州の南朝方の勢力が根城南部氏だけとなり、三戸南部氏と争うことになりかねないと考え、根城や領地を三戸南部に託して、正平20年/貞治4年(1365年)頃甲州の本領波木井に引き上げます。

 八代・政光は建徳3年/文中元年/応安5年(1372年)、兄の信光から家督を譲られます。政光は成人すると、母の加伊寿御前が政長から譲られた七戸の地を根拠地とします。この後、政光は甲斐に在住していますが、南北朝合一の元中9年/明徳3年(1392年)頃、将軍足利義満の密命を受けて、三戸南部氏13代南部守行が、政光の元をたずねて降伏勧告を行います。その際、政光は
「累世南朝の皇恩に浴した恩義は忘れられない。狐城によって敵対するのではなくて、二君に仕えることを恥とする」
「むしろ自刃を棄て、農奴となるとも足利将軍の粟を食みたくない」
と意志を変えず、守行は三戸南部と根城南部の親善関係を説き、
「甲州波木井の本領を去って、後醍醐天皇よりの天戴地八戸に居住するならば、南朝より受けた封地に居して、将軍に君事しないで済むように取り計らいたい」として、将軍に取り計らい、八代・政光は、甲州の領地を捨て、八戸へ移住します。

 根城にやってきた政光は、兄信光の子長経に九代目を継がせ、自分は隠居して七戸城に移り住みます。また、晩年には甥の長経に八戸の地を譲って、自身は七戸に居を構え応永34年(1427年)に亡くなります。居城とした七戸城は政光の実子・政広が継ぎ、子孫は七戸氏として続きました。

 また、波木井南部氏初代実長の三男・長義は、甲斐を離れず波木井にあって生涯を久遠寺外護に尽くしました。その子孫も代々久遠寺外護に尽くしましたが、大永7年(1527年)に波木井義実は、甲州に進入した駿河今川勢に内応した故をもって武田信虎(信玄の父)に討たれ、地頭家としての甲斐波木井氏は滅亡しました。

出典 歴史と伝説 南部昔語 P2〜7 (伊吉書店)
   青森県史 資料編 中世菊酩氏関係資料P352〜357(青森県)
   根城築城六百五十年記念誌 八戸根城と南部家文書P13〜268(八戸市)
   根城ものがたりP12〜106(デーリー東北新聞社)
 
芳賀