南部編第14話 蛎崎蔵人の乱 〜根城南部軍、下北半島を縦断し、奇襲攻撃により蛎崎軍を殲滅〜

  • 2013.12.14 Saturday
  • 14:03
 根城南部氏6代・信政は後醍醐天皇の孫で後村上天皇の甥・良尹(ながただ)を下北地方田名部の領主として迎えました。
良尹は信政が修築した順法寺城を居城とし、信政の妹を妻に迎えました。
 人々は天皇の血を引く良尹の一族を尊敬の念を込めて「北部王家」と呼びました。(みちのく南部八百年天の巻P188伊吉書院)

 


※順法寺城跡(旧城ヶ沢小学校)

 田名部の地は馬産地として知られており、さらには金や銀の産出地でもありました。
北部王家4代当主・義邦は、鉱山の開発をさらに進め、他国との交易を行い、着々と北部王家の財力を蓄え、根城南部家の後ろ盾もあり、その勢力を定着させてました。
 文安5年(1448年)、北部王家5代・義純は重臣の蛎崎蔵人の謀略により、子供達と共に暗殺されてしまいました。(八戸市史通史編P128八戸市)
 暗殺により蔵人は北部王家の実権を握ることになりました。
 


順歩寺城跡(神明宮)

 この蔵人による謀反の報せは北部王家とゆかりの深い根城南部氏にももたらされていましたが、根城南部氏13代当主・政経は幕府に、ことの詳細を報告し、後花園天皇から蛎崎蔵人追討の勅許を得てから討つことにしました。
 その間、蔵人は北部王家の財力をつぎ込み、むつ市川内町蛎崎にある居城を強固な構に大改築し、名前も蛎崎城から錦帯城へと改名しましました。また、松前のアイヌ・樺太・満州などからの、援軍・雇い兵、合わせて4万もの兵力を集めていたといいます。(みちのく南部八百年天の巻P202〜P205伊吉書院)
 
康正2年(1456年)8月になると、藩境付近で根城南部軍と蛎崎軍の間で小競り合いが始まり、根城南部家は天皇からの勅許が出るまで消極的な攻撃しかできなかったため、徐々に押されていき、蛎崎軍は横浜・野辺地・七戸まで手中にしてしまいました。
 同年12月になり、ようやく勅許が出たため根城南部軍は反撃を開始し、七戸城の奪還に成功しましたが、大雪という条件に有利であったアイヌ兵の活躍や火牛作戦(※1)・毒矢による攻撃などにより苦戦が続きました。
(みちのく南部八百年天の巻P205〜P208伊吉書院)

 このため、根城南部軍は海上から錦帯城を奇襲することにしました。
 八戸から尻屋崎、大間崎を経由して波多の湊(現 大畑港)を目指し出港しました。大間崎を回ればもう波多の港も近いと思われた頃に、急に海は大荒れとなり、大嵐に巻き込まれてしまいました。
 根城南部軍が蛎崎城を目指して出向していたことを知り、迎え撃つ準備をしていた蛎崎軍でしたが、この大嵐のため根城南部軍の船は遭難したものと思い込み祝宴を開いていました。
 根城南部軍は奇跡的に一艘の船も失うことなく、波多湊を通り過ぎた奥戸(おこっぺ)の湊にたどり着きました。
この湊から下北半島を縦断し蛎崎城に向かい、夜中、油断していた蛎崎軍を攻撃しました。このため、なす術もなく錦帯城は落城、蔵人は蝦夷へ逃げてしまいました。
(みちのく南部八百年天の巻P209〜P221伊吉書院)


※錦帯城跡

 蛎崎蔵人の乱を平定した根城南部氏は、幕府や朝廷からの許しを得てからの戦であったため、恩賞として北部王家の所領・田名部3千石と錦帯城等に蓄えられていた金・銀や銭、食料、合わせて59万両にも及ぶ金品が与えられました。恩賞として得た金品は根城南部領の領民、そして新しく領地となった田名部の領民たちの救済として活用され根城南部氏当主・南部政経の領主しての威令は一段と高まることとなったのです。
(みちのく南部八百年天の巻P222〜P226伊吉書院)

※1 火牛作戦:火薬の入った筒を牛の角に結びつけ、これを先頭にしての攻撃

出典:八戸市史通史編(八戸市)、みちのく南部八百年天の巻(伊吉書院)


 
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南部編第12話 安東氏との戦い 〜南部氏の栄枯盛衰〜

  • 2013.12.13 Friday
  • 13:59
室町時代応永年間(1394年〜1428年)半ばの頃、東北日本海側の支配をめぐって
南部氏と安東氏は激しく争っていました。


※三戸南部氏の居城 聖寿寺館跡

 三戸南部氏は南北朝時代から秋田仙北地方を支配下におさめ、南朝方の根城南部氏が版図を確保していたが、秋田湊の安東氏が南部領を侵しはじめたので、三戸南部氏13代当主・守行は根城南部氏とともに秋田へ軍をすすめ攻略しました。
そして、1418年(応永25年)、守行とその嫡子・義政は十三湊に拠点を置く十三湊安東氏の居城を次々と攻撃し、陥落させ、敗れた安東氏は松前へのがれ、三戸南部氏は津軽全土を手中にしました。(八戸市史通史編P127八戸市)


※安倍・安藤氏の碑(唐川城跡)

その後、1432年(永享4年)再び秋田湊の安東氏が再び仙北地方に侵攻してきたので、大軍を派遣し撃退しました。(弘前市史資料編P240弘前市)
この時、仙北地方に守行の3男で下久慈城主・金沢右京亮家光を代官として配置しました。
この頃、三戸南部氏は全盛期を迎え、「南旧秘事記」によると東北地方太平洋側は現在の仙台市大崎まで、日本海側は新潟県までの広大な領地を有していたとされています。三戸南部氏14代当主・義政の後は相次ぐ当主の交代により、周辺豪族への統制力にも翳りが見え、根城南部氏は後花園天皇の勅許を得て、蛎崎蔵人の乱を平定し、下北半島を所有することになり、根城南部氏は嫡流である三戸南部氏に拮抗する勢力を持つまでになりました。
戦国乱世の時代になると三戸南部氏は次第に衰退の色が見え始め、所領は糠部数郡を有するのみとなりました。
仙北地方を巡って金沢氏と安東・小野寺氏との間で熾烈な戦いが続いており、寛政年間(1460年〜65年)になると小野寺氏を主力とする出羽勢の反撃が始まり、金沢右京亮家光は敗死し。1468年(応仁2年)に至り、南部氏は仙北地方支配を諦め、
家光の子家信は本領の久慈へ帰ることになりました。
その後家信の嫡子・光信(のちの大浦光信)が三戸南部氏の命により、安東氏の備えとして津軽地方種里へ派遣されることになります。




※光信公の館(鰺ヶ沢町種里)

光信は奥州藤原氏3代・秀衡の弟で十三湊安東氏当主・藤原秀栄を祖とする津軽氏の嫡男で、家信の娘を室としたことで金沢氏の家督も継承することになりました。(弘前市史資料編P240弘前市)
そして、光信から5代後の大浦為信が津軽統一を成し遂げ、弘前藩誕生へと続きます。
南部氏の中では同族同士の中での争いが多く、下剋上が当たり前の時代ではあり、大浦為信の津軽統一についてもその一つといえます。
また、九戸政実の乱も家督相続争いから端を発し、日本全土を巻き込んだ大乱となりました。
この他、根城南部氏の遠野移封のことや、盛岡藩10万石のうち2万石を八戸藩に分領した際もきな臭い事件が起こるなど、南部氏の歴史は同族同士の争いの上に作られてきたといっても過言ではないといえるのです。

出典:八戸市史通史編(八戸市)、弘前市史資料編1(弘前市)、サイト「武家家伝南部氏」
-haru-

南部編第13話 南部長経と秋田安東氏との戦い

  • 2013.12.12 Thursday
  • 10:57
 青森県八戸市の松舘に大慈寺というお寺があります。この寺は、秋田県鹿角市の萬松寺の宝山正弥(ほうざんしょうちん)和尚が開山したと伝えられています。三戸南部13代当主・南部守行が、湊系安藤氏の初代当主・安藤庶季(のちの安東氏、庶季は系図により鹿季と表記されることもあります)との間で領土争いをした際、守行に敵情を知らせた和尚に報いて、建立したといわれています。
松舘大慈寺山門
※大慈寺(松舘)山門
 この南部・安東の領土争いに関して、安東氏側の史料はなにも残っていないようです。そこで、南部側の史料から、大慈寺開山に至る経緯をひも解いてみましょう。
 時は応永17年(1410年)にさかのぼります。南部守行は、根城南部の南部長経(なんぶながつね)を三戸の城へ招き、協力を要請します。その要請とは、南部の領土を度々侵略してくる秋田への出陣に関するものでした。守行と長経の間で取り決められたことは2つ。1つは、守行出陣後の領内の警備を長経が行うこと。もう一つは、長経の弟、光経が戦の先陣をつとめることでした。
山門の看板
※山門のそばには歴史が記述された看板があります
 光経は秋田に出兵しますが、秋田勢に予期され、一時退避を余儀なくされます。光経は、この状況を打開するために、月山(がっさん)の神へ戦勝を祈願することにします。陣中に祭壇を設け、七日七晩祈願しました。そして、七日目の夜、祈願をこめている光経と、三人の家臣、三上・橘・西沢が同じ夢を見ます。
 その夢とはこういうものです。
 光経の陣の上を2羽の白鳥が飛んでいきます。そして、鶴がその姿を消した彼方から、九つの星が光経のお膳に落ちます。光経はその星をとり、懐に入れようとする、というものでした。
 この夢を吉兆ととらえた光経勢の士気は高まります。そして出陣の前に、実際に二羽の鶴が月山のほうに飛んでいくのを見て、さらに士気は高まり、秋田軍に攻め込もうとします。
 そこに現れた僧が、のちに大慈寺を開山する宝山正弥和尚です。和尚は、光経にこう進言します。
「秋田軍は、要所に伏兵を忍ばせている」
 これを聞いた光経は、作戦を変更、無事秋田軍を攻略することができました。
 長経と光経は、この宝山正弥生和尚の功労に報いるため、一寺を建立し和尚に寄進することにしました。それが、松舘にある大慈寺になります。

※山門には、見事な装飾が施されています
 これが、南部側史料によった物語になるのですが、秋田軍の南部侵攻に対しては、別の説もあります。南部の秋田侵攻のほうが、南部侵攻に先んじて行われていた。つまり、秋田軍が侵攻した土地は、本来は秋田軍のものだったのではないか、という説です。
 歴史は、勝者によって語られるものですが、より事実に近づくためには、秋田側の史料の発見が待たれるところです。
 
アラン・スミシー
参考文献
みちのく南部八百年 天の巻 p155~p177(伊吉書院)
津軽秋田 安東一族(新人物往来社)
秋田「安東氏」研究ノート(無明舎出版)
八戸根城と南部家文書p273(八戸市)
コラム 南部長経と秋田安東氏の戦い