南部編第6話 櫛引八幡宮 〜南部家初代光行〜

  • 2013.12.06 Friday
  • 13:17

※櫛引八幡宮入口

 櫛引八幡宮は南部家初代光行公の草創と伝えられています。南部光行は文治5年(1189年)の平泉合戦により戦功をたて、源頼朝から糠部郡(ぬかのぶぐん、岩手県北部・青森県東部の広大な地域)を拝領されたと南部家文書(八戸根城南部家・『八戸家系』、『八戸家傳記』)に記されています。建久二年(一一九一年)、光行が糠部群へ入部し、後に家士を遣わして、甲斐南部郷(現在の山梨県)の八幡宮御神体を奉持せしめ、四戸の櫛引村に宮社を造営し武運長久を祈ったといわれています。これが櫛引八幡宮であり、今後南部の総鎮守となっていきます。
[青森県の文化財、三戸・八戸の歴史
p74(郷土出版社)]

 櫛引八幡宮の神社の用地は、約5万3千平方メートルあり、昔から平地であるのに「八幡山」と人々から呼ばれ、親しまれてきました。域内には老杉が立ち並び、古来より「八幡山」と呼ばれ神殿を中心に森厳の気をただよわせていたといわれています。江戸時代には社領一〇〇〇石余を支給され名実ともにこの地域の中心社でした。寛文四年(一六六四年)に八戸藩が盛岡藩から分立した後も櫛引八幡宮は盛岡藩の支配のまま残された事もあり、第二次世界大戦前までは「南部一ノ宮」ともよばれていました。
 

 

※櫛引八幡宮内展示物 














※櫛引八幡宮内展示物 刀

 現在、櫛引八幡宮は国指定の重要文化財となっております。本殿は、三間社流造の社殿であり屋根が曲線になっているのが特徴です。細部には彫刻や彩色模様があり江戸時代前期の造立でありながら桃山時代の遺風が察せられる建築となっています。旧拝殿は、入母屋造であり移築後も旧姿をよくとどめています。末社神明宮本殿は一間社流造であり、構造形式がしっかりしています。小規模ながらも本殿の左脇にあり、均衡を保っています。末社春日社本殿は、一間社流造で、東北地方においては珍しい春日造本殿であるといわれています。正門は格式の高い形式とされる四脚門であり切妻造の屋根で豪壮な感じのする門です。
 
 また、櫛引八幡宮には様々なものが奉納されています。
国宝の「赤糸威鎧兜大袖付(あかいとおどしよろいかぶとおおそでつき) 附唐櫃」は、大袖と兜に菊一文字の飾金物があり「菊一文字の鎧兜」ともいわれています。鎌倉時代金工芸芸術の特色をよく発揮しているところが特徴です。

国宝の「白糸威褄取鎧大袖付(しろいとおどしつまどりかぶとおおそでつき) 附唐櫃」は、正平
22年(1367)、甲斐の本領である波木井にいた根城南部家七代信光が、北朝方の武将「神大和守」を退けた功績により後村上天皇から拝領したものだと伝えられています。応永18年(1411年)根城南部家10代光経が、安東氏との秋田戦争に打ち勝った時「備州長船幸光」の太刀とともに奉納したそうです。
(「櫛引八幡宮公式ホームページ」)


※櫛引八幡宮内展示物 鎧

 旧暦の4月15日と8月15日は、春と秋の「おさかり」になっていて、たくさんの人々がお参りに訪れるそうです。秋の例大祭には、お宮の前で、木彫りの郷土玩具「八幡馬」がおみやげとして売られています。

旧暦8月15日は、仲秋の名月の日です。老杉の木の間をもれる月の光の下で、境内で行われる盆踊りも昔から有名でした。
その盆踊りの文句に

「八幡はちまんの お堂たてた 左甚五郎 大工様 掛けたかながら みなかせいだ」

というのが、歌い継がれています。
この文句に有るように、「はちまん様」のお宮が立派だという事で左甚五郎という名人の大工様が建てたのだと噂しあったといわれています。「かながら」という言葉には、2つの意味があります。それは、かながら=かんなくず。かながら=随神(神のみ心のまま)つまり唄の意味として鉋くずさえも、神様のみ心のままに、お宮の建築によく働いた、となります。このことから八戸郊外の八幡の辺りには、左甚五郎や河童(めどつ)の話が、八幡宮の建築伝説として語り伝えられてきたという話もあります。
(「櫛引八幡宮公式ホームページ」昔話)

 建武年間(1334~1338)には、根城南部家四代師行が流鏑馬(やぶさめ)の神事を奉納したといわれています。
現在でも旧暦8月15日の例大祭で行われています。

(金さん)