南部編第4話 奥州合戦と南部氏

  • 2014.02.26 Wednesday
  • 11:24


岩手県西磐井郡平泉町、国道4号線沿いに中尊寺があります。
中尊寺というのは山全体の総称であり、本寺である「中尊寺」と山内17ヶ院で構成されている一山寺院です。
中尊寺は嘉祥(かしょう)3年(850年)比叡山(ひえいざん)高僧慈覚大師円仁(こうそうじかくだいしえんにん)によって開山されたといわれています。

平安時代の後期、前九年の役で奥州が戦乱となり、秋田県の豪族、河内源氏と安倍氏が戦い、安倍氏が滅びました。
その後、後三年の役が勃発し、清原氏との戦いで藤原清衡が勝利し、奥6郡(岩手県中南部)奥州藤原氏の祖となります。
藤原清衡は江刺郡から平泉に居を移し、長治2年(1105年)に中尊寺を築きます。
その中で、現存する金色堂は三間四面の小堂ながら、平安時代の漆工芸、金属工芸、仏教彫刻の粋を凝縮したものであり、奥州藤原氏の葬堂として、日本史上に独特の位置を占めてきました。
その後、平泉は二代・藤原基衡(ふじわらのもとひら)が毛越寺、三代・藤原秀衡(ふじわらのひでひら)が無量光院を建立し、仏教文化がとても盛んになります。
また、中尊寺から約1キロ離れた所に、義経堂があり、そこには源義経が居候をしていました。
源義経は、平家討伐の功労者だったにも関わらず、その功績に報いるどころか、実の兄、源頼朝に追われる側となってしまい、逃げていたところを三代・藤原秀衡に匿われていました。
文治5年(1189年)源頼朝は、平家を討伐した弟・源義経に謀反人の罪で28万の軍勢を率いて、奥州に攻め入ってきました。
この時、源頼朝の家臣として従っていた南部氏の祖である、南部光行が登場するのです。
この時すでに源義経をかくまった張本人の3代・藤原秀衡はすでになくなっており、跡を継いだばかりの4代・藤原泰衡(ふじわらのやすひら)に対して、源義経を差し出すように圧力をかけました。
藤原泰衡は源頼朝の強い要求に屈し義経のいる館に攻め入り、源義経を自害においやりました。
しかし、藤原泰衡は源頼朝の命に従い源義経を討ったにもかかわらず、源頼朝は奥州攻めに踏み切りました。
藤原泰衡は源頼朝の軍勢から逃げながら、1通の手紙を送りました。
「義経をかくまったのは父、秀衡であって、私はその成り行きを知らない。私はあなたの命令に従って義経を討った。なのになぜ征伐されるのか。私に罪はない。」
しかし、源頼朝はこの手紙を無視し、藤原泰衡を追い続け、泰衡は逃げている最中に郎党に討たれました。その泰衡の首が金色堂に納められているのです。
南部光行はこの奥州合戦で平泉に進軍し、その途中で、敵将一人とその弟を斬り、泰衡軍を敗走させた手柄により、源頼朝から糠部5郡を賜ったと「南部史要」に書かれています。

ここに奥州藤原氏は滅び平泉の栄華は終わりました。
3代・藤原秀衡が亡くなってから、わずか2年の出来事です。
現在中尊寺にある金色堂を完成させたのは、4代・泰衡が討伐された後でした。
この金色堂を完成させ、修復し続けたのは、泰衡を討った源頼朝本人であり、後ろめたい気持ちがあったのかもしれません。





参考書籍 歴史発見2巻 中世の地域と宗教
(メガネ)

南部編第7話 南部光行、糠部入部

  • 2013.12.07 Saturday
  • 13:45


 


※相内観音堂入口

青森県三戸郡南部町下在所の隣に、南部家の始祖・南部光行が糠部に入部した際、初めて宿をとった、相内観音堂があります。
南部光行は、八戸に到着した後、馬渕川沿いに西へ向かい、現在の三戸郡南部町の相内にある観音堂で一夜を過ごしました。

翌日になると、観音堂に村人たちが集まり、光行が領主であることを知ると、村人のうちの一人、佐藤兵衛(さとべえ)の家に南部一行を案内しました。
佐藤兵衛は光行に「仮にも領主の館には一日といえども非常の備えが必要です」と言い、
急いで村人を集め、徹夜で家の周りに堀を掘らせました。
こうして夜のうちにできた館「一夜堀の館」と呼ばれるようになりました。
光行は、佐藤兵衛を家臣に加え、この館で正月を過ごしたと言われています。

 


※相内観音堂

しかし、光行が三戸に来たのは建久2年(1191年)の12月29日で、本来の正月には準備が間に合わず、1日遅らせた為、大晦日、正月がずれる風習となりました。
この時南部領内は小の月と呼ばれ、旧暦の12月29日が大晦日であり、これを1日遅らせたことにより、12月30日が大晦日になるという風習が続きました。
この風習が続き、現在の暦で1月2日が元旦というのは、明治時代まで続いたとされています。

 


※「えの坂」

佐藤氏の子孫は代々南部家に仕え、九戸政実の乱を機に三戸に帰還し田子通り16箇村の世話人、まとめ役となり下参郷(しもさごう)氏と名乗るようになりました。
その後、八日町に屋敷を賜り、田子丹波と改め田子氏を名乗ります。
南部信直が南部晴継に命を狙われ、隠れていたといわれている熊野神社の隣は、佐藤兵衛屋敷跡があります。
屋敷跡の脇には「えの坂」と呼ばれる坂があり、昔は佐藤兵衛橋(さとべえばし)と呼ばれていたのが、省略されていき、「衛(え)の坂」と呼ばれるようになったといわれています。
佐藤氏は光行を歓迎するため、踊りの名手を呼び集め、エボシやヒタタレ姿で農事になぞった舞を披露しました。
これが今も残っている郷土芸能「えんぶり」の起源といわれています。

現在は、遺構のほとんどが民家になっており、屋敷跡はありませんが、広大な石塁がかつて大きな屋敷があった雰囲気を出しています。(南部氏と家臣の幻影 糠部の大地 P35〜38)

 


※「えの坂」石塁

南部光行は村人に歓迎されながら、「一夜掘の館」で冬を越し、春になると平良ヶ崎城の築城工事に取り掛かりました。

ここから、南部氏の歴史が始まるのです。

出典 三戸通史 P51〜52 (三戸町)
   南部氏と家臣の幻影 糠部の大地 P35〜38 (目次和夫) 
(メガネ)

南部編第5話 源義経伝説 〜源義経北行伝説〜

  • 2013.12.05 Thursday
  • 10:20



※小田八幡宮(義経伝説)

 日本史上、最も有名な武将・源義経。
 日本の正史とされる「吾妻鏡」によると、義経は兄・源頼朝に追われ、平泉の奥州藤原氏3代秀衡のもとへのがれたが、秀衡が亡くなると、4代泰衡の攻撃を受け、妻・娘とともに高舘にあった持仏堂で悲運の最期を遂げたとされています。(義経北行上P8ツーワンライフ出版)


※熊野神社(義経伝説)

 しかし、亡くなったのは影武者・杉目太郎行信で、義経は密かに平泉から逃れ、北へ向かい、大陸へ渡ったとされる「源義経北行伝説」があります。(青森県史民族編資料P437青森県、義経北行上P178〜P179ツーワンライフ出版)
 義経一行は平泉から遠野を経て釜石、宮古へ。そして、三陸沿岸を北上し、八戸の種差海岸に上陸したと伝えられています。義経一行が通ったとされる経路周辺には、たくさんの言い伝えや縁の物が残されています。(義経北行上P286ツーワンライフ出版)

・からかさ石 月山神社近くにあり、義経一行が入山の途中、突然大きな石が頭上(平泉町束稲山) から落下したのを、弁慶が傘で受け止め救ったといういわれを持つ巨岩。(義経北行P199ツーワンライフ出版)
・荒覇吐神社 安倍氏の守護神。地元では「旅の神・軍の神」として崇められて(奥州市伊手) おり、義経一行が吉内金山を」離れるとき訪れたといわれています。(義経北行上P202ツーワンライフ出版)
・阿闍羅淵 この淵を登るために義経が手をかけたといわれる「判官手がけの松」、(住田町上有住) 弁慶が軍資金を積んだ牛車を牛車ごと押上げ、崖を登ったときの足跡だといわれる「弁慶の足跡」が残されています。(義経北行上P202ツーワンライフ出版)
・駒形神社 義経の愛馬「小黒号」が亡くなった地に、弁慶がさい配して、「小(遠野市上郷) 黒号」を祀るために建てたといわれており、現在は馬の守護神とされています。(義経北行上P209〜P210ツーワンライフ出版)

・中村判官堂 笛吹峠を越えた義経一行が宿泊したとされる場所に祀られていたも(釜石市橋野町) のが、この地に移築されました。別当の話では「笹りんどう」の紋を着けられたお姿が見られる」とのこと。この他、三陸には「判官」と名のつく神社やお堂がいくつかあります。判官神社(川井村箱石)、判官堂(宮古市長沢)、判官神社(宮古市津軽石)、判官稲荷神社(宮古市本町)など。(義経北行上P222ツーワンライフ出版)
・日向日月神社 この神社には、義経と静御前との間に生まれた子とされる「佐々木(新里村日向) 四郎太郎義高」が祀られています。(義経北行上P243〜P247ツーワンライフ出版)
・黒森神社 義経一行は黒森三中に籠り、3年3カ月の修行中に、を写経したとさ(宮古市黒森山) れる大般若経が奉納されています。(義経北行P258〜P259ツーワンライフ出版)
・弁慶岩 義経一行が宇留部の浜に来たとき、オナツという娘に一目惚れした(普代村力持) 弁慶が、村の若者とオナツを巡って力比べをしたといいます。その地から放り投げた岩が「力持」という場所に落ち、その岩が「弁慶岩」だといわれています。(義経北行上P272〜P232ツーワンライフ出版)
・諏訪神社 義経の捕討を命じられた北畠重忠は、平氏討伐の際、義経と生死を(久慈市長内町) 共にした仲でした。畠山軍により八方塞となって死を覚悟した義経は、「どうせ討たれるなら、重忠の手にかかって」と考えて義経は烏帽子に白い鉢巻姿で、馬に乗り、堂々と向かって行ったといいます。重忠は泣く泣く弓に矢をつがえ、「決して判官殿に当たりませぬように」と諏訪大明神に念じつつ放ちました。矢は義経の頭上を越え、老木の松に刺さったといいます。そのあと、重忠は後を追うことはせず、松に刺さった矢を抜き取り、この地に諏訪大明神を建立したのが、この神社の起源とされています。(義経北行上P281〜P282ツーワンライフ出版)
・小田八幡宮 義経が写経したといわれる大般若経が保存されているほか、義経が(八戸市川原木) 京都から持参した毘沙門天を安置するために毘沙門堂を建てたと伝えられています。(義経北行上P297〜P299ツーワンライフ出版、八戸市ホームページ八戸の源義経北行伝説)
・オガミ神社 義経と一緒に八戸まで来た正妻・北の方が亡くなった場所には、の(八戸市内丸) ちにオガミ神社が建てられます。この神社には北の方が使用していたとされる手鏡が残されているほか、義経北行伝説を記した「類家稲荷大明神縁起」が伝えられています。(義経北行上P300〜P302ツーワンライフ出版、八戸市ホームページ八戸の源義経北行伝説)
・矢止めの清水 義経が高館という場所から、どこまで遠くへ矢を飛ばすことができ(八戸市売市) るか弁慶に命じると、4卆茲稜亙ダ遒鯆兇┐疹貊蠅忙匹気蝓△修量陲鯣瓦と、水がわき出たことから、この名がつけられたといわれています。(義経北行上P295〜P296ツーワンライフ出版、八戸市ホームページ八戸の源義経北行伝説)。
・弁慶石 三八城神社の境内に成人の胸までの高さほどの巨岩に足跡のよう(八戸市内丸) なくぼみが残されており、これが弁慶が残したものだといわれています。(義経北行P296ツーワンライフ出版、八戸市ホームページ八戸の源義経北行伝説)
・日本中央の碑 この石碑を見た義経は「三熊野の 続く小山の ふみ石を 見るに(東北町坪渡地区) つけても 都こひしき」と三十一文字を詠んだとされています。(義経北行上P295〜P296ツーワンライフ出版)
・貴船神社 義経を慕って河内の国から追いかけてきた浄瑠璃姫は、この地で義(青森市野内) 経との再会を果たします。しかし、長旅の疲れから病に倒れたため義経は家臣の鷲尾三郎経春に看病を命じ、この地を後にしたと伝えられています。(義経北行上P317〜P319ツーワンライフ出版)
・福島城 奥州藤原氏3代秀衡の弟・秀栄を頼り十三湊へ向かい、福島城に迎(五所川原市相内) えられたといわれています。(義経北行上P322〜P326ツーワンライフ出版)
・厩石、義経寺 義経一行が蝦夷へ渡るため、三厩へさしかかると、大時化のため足(外ヶ浜町三厩本町) 止めされ、波風が一向に治まる気配がなかったため、義経は母の常盤御前からもらった正観音像に三日三晩祈り続けると、満願の朝、
白髪の翁が現れ3頭の白い竜馬を授けたといいます。(義経北行上P322〜P326ツーワンライフ出版)


※八戸の海岸

すると、波風も治まり、その竜馬に乗って海を渡ったとされています。これが三厩、厩石の起源になったと義経寺に伝えられています。
蝦夷へ渡った義経はその後、大陸へ渡り、チンギス・ハーンになったという伝説へとつながります。
※他にも青森県、岩手県にはたくさんの伝説やその縁の物が残されています。


出典:青森県史民俗編資料(青森県)、義経北行 史実と伝承をめぐって(ツーワンライフ出版)、八戸市ホームページ八戸の源義経北行伝説
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南部編第4話 恐山

  • 2013.12.04 Wednesday
  • 15:18
 青森県むつ市にある恐山。実際には恐山という名称の単独峰はなく、釜臥山をはじめとする外輪山に囲まれた宇曽利山湖一帯を総称して、恐山とされています。また、その形状から蓮華八葉(仏が座る蓮の花の弁が8枚であることから、仏教の聖地にたとえられています。)に例えられています。

※宇曽利山湖
  恐山菩提寺は、貞観4年(862年)慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)によって恐山金剛寺として開かれました。天台宗の修行道場として繁栄するも、康正年間(1455〜57年)に起こった蛎崎の乱の兵火によって焼失し一時衰退、根城南部氏の援助により、円通寺の宏智聚覚(わんちじゅがく)が釜臥山菩提寺と改めて再興したと伝えられています。
 むつ市史によれば、これらのことは、ほぼ後世に書かれたもので、推定に基づくものが多いそうです。
 恐山の由緒は、明確には特定できませんが、現在に至るまで信仰の対象とされています。

※恐山山門と地蔵
 なぜ、恐山は時代を越え、現在に至るまで霊場として存在しえたのでしょうか。
 恐山は、死と深く関わる場所です。恐山を訪れる多くの人は、死というものに、切実であれ興味本位であれ、答えを求めているのではないでしょうか。それも、自分の死ではなく、自分と深く関わった人間の死が対象です。そのような人の死は、残されたものの心に深く大きな動揺を与えます。もし、それが不条理なものであれば、なおさらです。感情は大きく揺さぶられ、自分の全存在をもってしても、耐えられないこともあるはずです。そのような人たちに寄り添う場所として存在するのが恐山であり、死者へ懺悔・悔恨・哀惜の情を受け止め、個人には重たすぎる現実を置いていける場所。それが恐山だと思います。
 東日本大震災後、多くの被災者が恐山を訪れているといわれています。行き場を失った死者への思いを受け止めてくれる場所だからでしょうか。

※恐山にある大きな卒塔婆
 運命・必然・因果、これらは全て人が作り出した摂理です。しかし、現実は偶然が支配しています。偶然の結果が人の生死を左右することもあります。その現実は、我々を正解のない思考の螺旋に引きずり込みます。恐山は、それを解決してくれる場所ではありません。ただ、その思考を受け止めるのです。ただ死者への思い引き受け、私たちがその重荷を背負うことができる日まで、ずっと待ち続けてくれるのです。
 恐山が時代を越え現在まで存在するのは、私たちの中にある死者への問題が、あらゆる時代の人にとって普遍のテーマであり、そしてつねに生者のそばによこたわっている証明なのかもしれません。

アラン・スミシー
出典
青森県の歴史散歩 p181〜p183
むつ市史 民俗編 p375
恐山 死者のいる場所 p53,p54 p62 p66 p74 p112 p119 p124 p186
禅の風 第四十号 p31
コラム 恐山観光

南部編第3話 南部氏の出自

  • 2013.12.03 Tuesday
  • 10:54


 


※初代・南部光行(三戸町立歴史民俗資料館提供)

 南部氏は新羅三郎義光(源義光)を祖とする甲斐源氏の一族であり、さらに遡ると、清和天皇の第6皇子・貞純天皇の子・源経基となります。(八戸市史通史編P96〜P97)
 経基は平安時代中期に起きた、関東での平将門の乱、瀬戸内海の藤原純友の乱の鎮圧のための討伐に向いましたが、大した功績も挙げられなかったものの国司等を歴任し、鎮守府将軍の地位まで上り詰めました。

 新羅三郎義光は後三年の役の際に兄・源義家とともに、清原武衛、家衛を破り甲斐守、等を経て従五位下刑部少輔となりました。(青森県史資料編古代1文献資料P492青森県)
 義光は馬術・弓術に長け、現在も小笠原流・武田流に伝えられています。義光は南部氏の祖とされているほか、武田氏、平賀氏、佐竹氏、簗瀬氏の祖でもあります。 

 


※源経基

 南部氏が東北の地にやってきたのは、南部氏の始祖であり、加賀美遠光の3男・南部光行が源頼朝の命による奥州討伐の際に武功を挙げ、その褒賞として馬淵川流域一帯の糠部郡を拝領したことから始まります。(青森県史資料編古代1文献資料P492青森県)

 加賀美遠光は新羅三郎義光の孫・源清光の四男で、弓矢の名手であったと伝えられています。1171年(承安元年)、宮中に怪異が起こったので、高倉天皇は遠光に鳴弦の術(※1)を行わせました。すると怪異は無事に治まり、褒賞として不動明王像(山梨県身延町大聖寺所蔵、国重文)と近江国志賀郡を下賜され、「王」の一字の使用を許され家紋は三階菱に「王」の字を配しています。また、治承・寿永の乱(※2)には光行の兄・小笠原長清と共に参加し、平家滅亡後の1185年(文治元年)には源頼朝より御門葉(※3)の一人として重きを置かれ、頼朝の家臣として「吾妻鏡」には、しばしば記述がみられます。

光行は、石橋山の戦い(※4)では源頼朝に与して戦功を挙げ、甲斐国南部牧(山梨県巨摩郡南部町)を与えられ、この時、南部姓を称したとされています。そして、頼朝の信頼を得ていた光行は奥州合戦への参加することになります。
光行とその一族が奥州へ下る際に、甲州の領地は光行の三男・実長に引き継がれます。実長は甲斐の国波木井に居住したことから波木井実長とも呼ばれていました。 また、実長は鎌倉幕府に対立する日蓮を庇護し、日蓮宗に帰依した人物でもあります。この実長から4代後が、根城南部家を築いた南部師行です。(みちのく南部八百年 天の巻P18〜P21伊吉書院)

南部師行は、建武の中興の際、鎌倉幕府を倒し、奥州に新しい政治体制を築こうとする後醍醐天皇の命うけた北畠顕家と共に奥州に下ります。そして陸奥の国府・顕家の指示を受け、八戸に根城を築き、北奥羽の統治支配に尽くします。ここが南北朝時代の数少ない南朝方の拠点となったのです。師行の子孫は5代に渡って、師行の遺言を固く守り、南朝方を支持し続けます。後の「南部勤皇五世」とよばれたその精神は、日蓮宗の開祖・日蓮上人の感化を受けた先祖・実長から受け継がれたものです。本拠地である甲斐国波木井郷は実長の四男・長義の家系が継続し、長男・実継の家系が根城南部氏として存続していきました。(みちのく南部八百年 天の巻P104〜P113伊吉書院)


 


※源義光

 ※1 鳴弦の術 弓に矢をつがえずに弦を引き音を鳴らす事により気を祓う退魔儀礼。 魔気・邪気を祓う事を目的とする。 後世には高い音の出る鏑矢を用いて射る儀礼に発展した。 鏑矢を用いた儀礼は蟇目の儀(ひきめのぎ)と呼ばれる。
※2 治承・寿永の乱 中世最初の内乱である。後白河法皇の皇子以仁王の挙兵を契機に各地で平清盛を中心とする平氏政権に対する反乱が起こり、最終的には、反乱勢力同士の対立がありつつも平氏政権の崩壊により源頼朝を中心とした主に坂東平氏から構成される関東政権(鎌倉幕府)の樹立という結果に至る。
※3 御門葉 鎌倉幕府においては源頼朝 (鎌倉殿)の一門としての処遇を受けた者をいう。
※4 石橋山の戦い 平安時代末期の治承4年(1180年)に源 頼朝と大庭景親ら平氏方との間で行われた戦い




出典:八戸市史通史編(八戸市)青森県史資料編古代1文献資料(青森県)、南部八百年 天の巻(正部家種康 伊吉書院)




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南部編第2話 奥羽合戦前の東北

  • 2013.12.02 Monday
  • 13:43
 


※岩手県平泉町


 東北地方は、平安時代前までは、「道奥(みちのおく)」と呼ばれ、文化の遅れた野蛮の地のイメージが付きまとい、住民も蝦夷(えみし)とよばれ、異民族・野蛮人扱いされていました。その一方で、金をはじめとし、名馬・鷹の羽・アザラシの皮など都で珍重されている特産品の産地及び供給地として重要な地でもありました。
 平安時代後期、「陸奥国(むつのくに)」と呼ばれていた東北地方には、奥六郡を拠点とする安倍氏、出羽仙北三郡を拠点とする清原氏、二つの大豪族が存在していました。

前九年の役
 当時の朝廷は安倍氏の勢力拡大を恐れ、貢租を怠っていたことを理由に、永承6年(1051年)、陸奥守・藤原登任に安倍氏討伐を命じました。これが前九年の役のはじまりです。
この戦いで朝廷軍は敗れ、朝廷は源頼義に陸奥守・鎮守府将軍として、再度、安倍氏討伐に向かわせました。青森県史資料編古代1文献資料P457青森県、図説平泉 浄土をめざしたみちのくの都P18 河出書房新社)
しかし、奥羽に向かう途中、恩赦の知らせが届き、安倍氏は放免となり、討伐は中止となりました。
安倍氏の族長・頼良は服従し、名が将軍と同音であったので配慮し、安倍頼時に改名しました。この討伐を成功させ、源氏の名声を不動のものにしようと目論んでいた頼義は、国府に帰る途中、野営していた部下の陣が攻撃を受け、その攻撃は頼時の長男・貞任の仕業であるとし、真相を確かめることなく、頼時に貞任を差し出すよう命じました。しかし、頼時はそれを拒んだため、再び戦に発展しました。


※安倍館遺跡跡

  そんな中、将軍配下であった藤原経清(藤原清衡の父)は安倍側に寝返りました。経清の妻は頼時の娘であったため、安倍氏との内通の疑いがかけられ、死の危険を感じたためでした。(青森県史資料編古代1文献資料P455 青森県)
 この時、頼義の嫡男・義家(八幡太郎)もこの戦いに参加していましたが、安倍軍には全く歯が立たず、戦いの途中、頼時は戦死しましたが、それでも嫡男・貞任を中心に全く戦力が衰えることなく、頼義軍は大敗し、残ったのは頼義、義家含めたったの7騎だったといいます。 困った頼義はもう一つの豪族・出羽仙北の清原氏にすがりました。清原氏の参戦により形勢は一気に逆転し、安倍軍は厨川まで敗走し、立てこもって最後の抵抗を見せただけで滅ぶことになりました。(青森県史資料編古代1文献資料P459青森県、図説平泉 浄土をめざしたみちのくの都P19〜P20河出書房新社)
 貞任は深手を負ってとらえられましたが、すぐに息を引き取り、首は丸太に釘で打ちつけられ、朝廷に送られました。弟の宗任は伊予に流され、藤原経清は頼義に最も恨みを買っていたこともあり、長時間苦しみを与えるため、さびた刀で鋸引きで斬首されました。(青森県史資料編古代1文献資料P465青森県)
 経清の妻子は清原氏に引き取られ、妻は武則の子・武貞の妻となり、子・清衡は養子となりました。
 この功績により源頼義は正四位下伊予守となり、清原武則は従五位下鎮守府将軍に補任され奥六郡が与えられました。清原氏は奥羽の覇者となり、前九年の役は幕を閉じます。
 


※前九年の役の石碑

 清原武則は鎮守府を国府の近くで、安倍氏の本拠であった衣川に拠点を移し、清原氏本流の地位を固め、武貞、真衡と引き継がれ、真衡は武則と同様鎮守府将軍となりました。
 真衡はそれまでの同族連合のような共同組織から、本流の宗家を突出させ、兄弟を含め他の一族親類を従者とする惣領制に強引に改めました。その結果、一族内の不協を招き、後3年の役へと発展していきます。(青森県史資料編古代1文献資料P489青森県、図説平泉 浄土をめざしたみちのくの都P23〜P24河出書房新社)

後三年の役 
 事の発端は真衡の養子・成衡に嫁を迎えるにあたり、前九年の役でも功績のあった吉彦秀武が祝いに駆け付けた際に、秀武を無視し、囲碁に興じて長時間待たせたことに腹を立てた秀武が祝いの品として持参した砂金を庭にぶちまけ、本国の出羽に帰ってしまったことにはじまります。
 この行為に激怒した真衡は秀武を成敗すべく、兵をつれ出羽に向かいました。これに呼応するように弟・清衡、家衡が留守となった真衡の館へと迫りましたが、真衡が軍を引き返して来たので引き返しました。再び秀武成敗のため出羽へ向かいましが、またもや清衡、家衡軍が真衡の館を攻撃しました。しかし、準備をして待ち構えていた真衡軍と鎮守府将軍となった源義家の軍により大敗を喫して義家に降伏しました。しかし、真衡自身は出羽へ向かう途中、病のため急死してしまいました。
 もともと義家に敵意のない清衡と家衡は許され、真衡の遺領である奥六郡を南北に分け、南三郡を清衡に北三郡を家衡に与えました。このことを不服とし、家衡は応徳3年(1086年)、清衡の館を攻撃し、清衡の妻子及び一族はすべて殺され、清衡自身は何とか生き延び、義家に助けを求めました。(青森県史資料編古代1文献資料P491青森県)
 清原一族の争いに端を発した後3年の役は、源氏対清原一族へと発展し、ここで性格が一変してしまいました。
 義家と清衡は軍を立て直し、再び家衡軍と対しました。家衡軍には叔父である清原武衡が加わっていました。家衡・武衡連合軍に苦戦を強いられた義家・清衡連合軍のもとに義家の弟・義光(新羅三郎)が官職を辞して都から駆けつけ、源氏は総力を挙げて戦いに臨み、とうとう勝利を得ました。
 義家はこの戦いに勝利し、恩賞を得られるものと思っていましたが、朝廷はこの戦いを義家が勝手に始めた私戦としたため、恩賞はもとより、戦費の支払いも拒否され、さらに陸奥守を解任されてしまいました。結果として、義家は主に関東から出征してきた将士たちに私財から恩賞を出すことになってしまいましたが、このことが却って源氏と義家の名声を高めることになり、後に源頼朝による鎌倉幕府創建の礎となったともいわれています。(青森県史資料編古代1文献資料P492青森県、図説平泉 浄土をめざしたみちのくの都P24河出書房新社)

奥州藤原氏の誕生
 戦役後、清衡は清原氏の旧領すべてを手に入れ、姓を藤原に復し、藤原清衡を名乗り、清原氏の歴史は幕を閉じました。その後、清衡は朝廷や藤原摂関家に対し、献上品や貢物を欠かさなかったため、朝廷は奥州藤原氏を信頼し、事実上の奥州支配を容認しました。
 奥州藤原氏は中央から派遣される国司を拒まず受入れ、奥州第一の有力者として、それに協力
するというう姿勢を最後まで貫き通しました。そのため、奥州は政争とは無縁の地帯となり、奥
州藤原氏17万騎といわれた強大な武力と政治的中立を背景に、源平合戦の最中でも平穏な中での
独自の政権と文化を確立し、奥州合戦が起こるまで、奥羽の覇者として君臨し続けるのでした。


出典:青森県史 資料編 古代1文献資料(青森県)、図説平泉 浄土をめざしたみちのくの都(河出書房新社)


 
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南部編第1話 十和田神社

  • 2013.12.01 Sunday
  • 13:01
 
※十和田湖
   青森県十和田市の十和田湖畔休屋にひっそりと建つ十和田神社。一時は衰退していたようですが、建武元年(1334年)北畠顕家の奥州下向に従ってきた南部氏が、甲斐の国・白鳥の宮の分霊を勧請し、再興しました。津軽や秋田への戦略的要地として重要視され、藩費で維持運営を行っていたようです。南部藩では、この十和田神社と恐山を二大霊場として位置付けていました。現在は、日本武尊(やまとたけるのみこと)を祀っていますが、もとは十和田山青竜権現を祀っていました。これは明治政府による神仏分離によって、神社で祀ることができるのは、日本書紀に登場する神に限定されたためです。
十和田神社の創建に関する言い伝えは2つあります。
1つは大同2年(807年)、坂上田村麻呂が東夷東征に際して、日本武尊を祭神にして創建したというものです。しかし、神仏分離によって日本武尊を祀ることになったといわれているので、この説は比較的新しいものなのかもしれません。ここでは、もう1つの説をクローズアップしていきます。

※十和田神社鳥居
平安時代、南祖坊(なんそのぼう)という僧侶がいました。彼は、熊野権現のお告げによって、諸国で修業をしていました。そのお告げとは「旅の途中、鉄の草鞋(わらじ)の緒が切れ、錫杖(しゃくじょう)が折れた場所が、あなたの永住の地になる」というものでした。そしてついに、十和田湖に差し掛かった時、草鞋の緒が切れ、錫杖が折れました。
しかし、十和田湖にはすでに八の太郎という大蛇となった主がおり、十和田湖を住処とするためには、八の太郎と戦わなければなりませんでした。十四日以上続いた戦いの末、南祖坊は、八の太郎を追い出すことに成功します。戦いが終わり、南祖坊は神仏への祈りを捧げていると、雲の上に童子が現れます。童子は「我こそは熊野山の使なり」と言い、姿を消しました。そして、松の木の上に『十和田山正一位青竜権現』の文字が映し出されたそうです。南祖坊は、湖に身を沈め、十和田湖の主になり、十和田山青竜権現として、人々からあがめられるようになりました。

※十和田神社拝殿
南祖坊は、室町中期の説話集『三国伝記』にも、「霊現堂の衆人」と記載されており、実在する人物であったようです。南祖坊が実在するのであれば、この創建伝説は、こうも解釈できないでしょうか。
八の太郎という大蛇は、元々十和田湖にあった信仰であり、南祖坊は、そこに新しく入ろうとした信仰。南祖坊の賢い点は、土着する信仰を否定しなかったことだと思います。十和田湖という器を変えることなく、主を入れ替えるという発想で、旧来ある信仰から新たな振興へと無難に移行できたのではないでしょうか。
アラン・スミシー
参考文献
青森県歴史散歩 p223~p224(山川出版社)
十和田市史 下巻 p709(十和田市)
水神竜神十和田信仰(北方新社)
青森県の民間信仰(北方新社)
十和田湖伝説 八の太郎と南祖之坊(伊吉書院)

コラム 十和田神社