はじめに

  • 2014.03.31 Monday
  • 16:57
 青森県には、三内丸山遺跡をはじめとする多くの古代遺跡、安藤氏の拠点として栄えた中世港湾都市「十三湊」など、本州最北の地として、特色のある様々な歴史・文化が存在します。地域的にも津軽地方と南部地方では、藩政時代から違う藩の領地だった経緯もあり、独自の歴史と文化を築いてきた特徴があります。

 当ブログは、藩政時代、津軽地方・南部地方をそれぞれ支配した「津軽氏」と「南部氏」の歴史を中心に「青森歴史街道探訪」YOUTUBE動画制作のため調査・取材したものを紹介しています。

「津軽編」では、南部氏から津軽地方を実力で切り取り、戦国の世の生き残りを果たし弘前藩初代藩主となった津軽為信が活躍した時代を中心に、為信登場以前から津軽統一への軌跡、弘前城築城までの時代を、南部編では、青森県全域を含む北奥羽地方で広大な領地を支配していた南部氏の登場以前から明治の廃藩置県までの時代を、独自の内容で構成しました。

 青森県の歴史に多くの足跡を残した「津軽氏」と「南部氏」。
青森県の歴史に興味のある方はもちろん、全く歴史に興味のなかった方にもぜひご覧いただきたいと思っております。また、 YOUTUBE動画などの各コンテンツと合わせて、青森県の新たな観光ガイドとしてもご活用ください。

株式会社サンブラッソatv「青森歴史街道探訪」コンテンツ制作事業 スタッフ一同


 
株式会社サンブラッソatv「青森歴史街道探訪」コンテンツ制作事業
◆事業内容
当事業は、青森県の街道にある史跡やそれに関わる歴史的・文化的背景等を調査・取材し、制作された動画コンテンツ等を通し、青森県の新たな観光資源として情報発信することを目的としています。緊急雇用創出対策事業の重点分野雇用創出事業として青森県より委託を受け、平成25年6月から平成26年3月31日まで実施したものです。

◆事業成果
当ブログは「青森歴史街道探訪」コンテンツ制作事業の一部門であり、事業成果の一部として情報発信されるものです。
 

南部編 目次

  • 2014.03.31 Monday
  • 16:40
NO. タイトル 時代 コラム
第1話 十和田神社 平安 十和田神社
第2話 奥州合戦前の東北 平安 浄土都市・平泉
第3話 南部氏の出自 平安 名君と呼ばれた八戸藩2代藩主・南部直政
第4話 恐山 平安 恐山観光
第5話 源義経伝説 平安 静御前のその後
第6話 櫛引八幡宮 鎌倉 櫛引八幡宮 南部と八幡馬
第7話 南部氏が糠部に入ってきた時の様子 南北朝 「戸(のへ)」の意味
第8話 根城南部氏の出自 南北朝 南部の食用菊
第9話 後醍醐天皇と南部師行 南北朝 後醍醐天皇の奥州統治と南部師行
第10話 足利将軍と南部氏 南北朝 根城の軍配
第11話 七戸城 南北朝 見町観音堂・小田子不動堂
第12話 安東氏との戦い 室町 八戸藩2代藩主・南部直政と「生類憐みの令」
第13話 南部長径と秋田安東氏の戦い 室町 南部長経と秋田安東の戦い
第14話 蛎崎蔵人の乱 室町 八戸沿岸の神・鯨
第15話 三戸城〜城山公園〜 安土桃山 法光寺
第16話 三戸城〜三戸五ケ城〜 安土桃山 南部利康霊屋
第17話 田子城 安土桃山 田子神楽
第18話 北信愛 安土桃山 南部氏の一族
第19話 南部信直の一生 安土桃山 八葉山天台寺
第20話 南部藩の勢力地図の移り変わり 安土桃山 南部領は他にもあった?
第21話 九戸政実の乱 前編 安土桃山 私戦禁止令
第22話 九戸政実の乱 後編 安土桃山 薩天和尚(さってんおしょう)
第23話 関ヶ原の戦いと上杉包囲戦 安土桃山 関ヶ原の戦い・上杉包囲戦と南部領
第24話 三戸南部氏の本拠地を盛岡城に移す 江戸 南部藩から見る盛岡名産品
第25話 根城南部氏遠野横田城へ移封される 江戸 南部氏唯一の女の殿様・清心尼
第26話 藩境塚 江戸 愛宕山(あたござん)に流れる水
第27話 南部氏の代官たち 江戸 盛岡藩の産業
第28話 野辺地代官所 江戸 野辺地戦争と野辺地城跡
第29話 盛岡藩最大の鉱山、尾去沢鉱山 江戸 古代の鉱業
第30話 日本有数の良馬、南部馬を産出 江戸 馬産地・七戸町
第31話 相馬大作事件 江戸 田中館愛橘
第32話 南部藩と飢饉と蛇口伴蔵の情熱 江戸 南部藩と飢饉と開墾
第33話 戊辰戦争の中の野辺地戦争 明治 野辺地戦争
第34話 廃藩置県で盛岡藩消滅 明治 新選組
第35話 斗南藩 明治 斗南藩の由来
第36話 南部家ゆかりのもの 明治 八戸三社大祭

津軽編 目次

  • 2014.03.31 Monday
  • 16:37
NO. タイトル 時代 コラム
第1話 大河兼任の乱 平安 浅虫・善知鳥崎
第2話 津軽萩野台の合戦 鎌倉 金売り吉次
第3話 津軽の夜明け〜嘉元の鐘〜 鎌倉 板碑の歴史
第4話 津軽の雄、安藤氏〜波紋〜 鎌倉 樹齢1000年の甕杉
第5話 十三湊遺跡 室町 十三湖
第6話 青森県全域を南部氏が治める 室町 南部氏家紋
第7話 種里城主 大浦光信 室町 法名
第8話 為信の出自 室町 名前が変わる意味
第9話 為信、大浦城主になる 室町 為信の妻、阿保良姫
第10話 大浦為信 石川城攻め 安土桃山 石川城
第11話 大浦為信 和徳城攻め 安土桃山 けの汁
第12話 大浦為信 平川市の軌跡 安土桃山 乳井館
第13話 浪岡城 安土桃山 浪岡城
第14話 六羽川合戦 安土桃山 六羽川の今
第15話 油川城 安土桃山 津軽一統志
第16話 大浦為信、外ヶ浜攻略 安土桃山 平将門
第17話 横内常福院 安土桃山 酸ヶ湯 薬師神社
第18話 大浦為信、田舎館城攻略 安土桃山 生魂神社
第19話 大浦為信、飯詰高楯城攻撃 安土桃山 長円寺の梵鐘
第20話 大浦為信、秀吉から津軽支配を認められる 安土桃山 津軽氏と政権を握る者との縁戚関係
第21話 津軽為信 大燈篭伝説  安土桃山 ねぶた師の一年
第22話 堀越城 安土桃山 一国一城令
第23話 新しい城の建設計画 江戸 津軽為信の家臣、沼田面松斎
第24話 浅瀬石城 江戸 現在の浅瀬石
第25話 為信の死と菩提寺 江戸 為信の死に思う『真実』の行方
第26話 弘前城の鬼門・裏鬼門 江戸 弘前城と風水
第27話 城下町 仲町武家屋敷 江戸 弘前城
第28話 城下町 元寺町から新寺町へ 江戸 弘前城下町の職人
第29話 弘前城 四神相応の地 江戸 弘前路地裏探偵団
第30話 青森港 開港 江戸 青森の顔アスパム
第31話 高岡を弘前と改称 江戸 津軽家の菩提寺
第32話 津軽真言五山の制と求聞寺 江戸 弘前城の惣構と宗教信仰
第33話 津軽の牧場 江戸 弘前藩の産業
第34話 黒石藩 江戸 こみせ通り
第35話 高照神社と津軽信政 江戸 弘前藩4代藩主・津軽信政
第36話 弘前城 江戸 重要文化財、弘前城北門/亀甲門

「南部氏」とは − 南部氏の北奥羽支配 −

  • 2014.03.31 Monday
  • 15:37
南部氏の北奥羽支配

 鎌倉幕府の史書『吾妻鏡』や南部氏の家伝によれば、南部氏は源頼朝の平泉攻め(奥州合戦)に参加し、その武功により、現在の青森県南東部から岩手県北部に至る糠部(ぬかのぶ)地域に所領を与えられたという。しかし、南部氏は甲斐国巨摩(こま)郡南部郷(現山梨県)を本領としていたため、糠部の経営に当たることはなかった。

 その状況が変わったのは、鎌倉幕府が衰退した1320〜30年代である。南部氏は執権北条氏の支配を脱け、後醍醐(ごだいご)天皇を助ける側に回った。やがて足利尊氏が力を持つとこれに反発し、後醍醐天皇を支持する陸奥守北畠(きたばたけ)顕家(あきいえ)に従って奥州に入った。この時、南部師行(もろゆき)が北奥の奉行に抜擢され、糠部の八戸に根城(ねじょうと呼ばれる城館を築いた。南部氏の糠部支配はここからスタートした。

 糠部に入った南部氏は、北奥羽から津軽海峡を越えて蝦夷地に至る広大な地域を支配していた安藤氏とぶつかることになった。幸いなことに、この時期の安藤氏は出羽国秋田の惣領(そうりよう)家(上国(かみのくに)安藤氏)と陸奥国津軽の分家(下国(しものくに)安藤氏)に分かれ、蝦夷(えぞ)管領(かんれい)職をめぐって対立していた。南部氏は隙を衝いて下北・外ヶ浜(そとがはま)・津軽・十三湊(とさみなと)を次々と奪った。安藤氏は蝦夷地や出羽国に逃れ、失った土地の回復を図ったが、実現しなかった。
 こうして南部氏は北奥羽の一大勢力にのし上がったが、のちに「三日月の円くなるまで南部領」と呼ばれたほど広大な領地を支配するには、一族や家臣に所領を分け与えて統治させるしか方法がなかった。そのため久慈氏や九戸氏などの有力な一族は、南部本家の命に従わないことがあった。家臣団も一枚岩ではなく、例えば、南北朝の対立が止んだ14世紀末以降南部本家が拠点としてきた聖寿寺館(しょうじゅじだて)(現南部町)は、天文8年(1539)、家臣赤沼備中(びっちゅう)に放火され焼失したという。

 義父南部晴政(はるまさ)との確執の末に本家を継いだ南部信直(のぶなお)は、天正18年(1590)の小田原攻めで天下人の地位を固めた豊臣秀吉に忠誠を誓った。しかし、信直の相続を認めない九戸(くのへ)政実(まさざね)の反乱に手を焼き、秀吉に助けを求めた。秀吉は蒲生(がもう)氏郷(うじさと)らを送って政実を討ち、その居城九戸城(現九戸市福岡)を信直へ与えた。
一方、根城南部氏(八戸氏)のように比較的早くから南部本家に臣下の礼をとり、戦国の生き残りを図った一族もある。文禄2年(1593)、朝鮮出兵に参加するため肥前国名護屋(なごや)(現唐津市)に出かけた信直は、信頼していた八戸政栄(まさよし)に留守を託し、「伝統や慣習にこだわるな」「こちらでは出世のために皆がよく働く」と、天下の情勢を書き送った。その後の八戸氏は筆頭家老として、南部本家を支えた。

 信直の子利直(としなお)は、慶長5年(1600)の関ヶ原戦で徳川家康の東軍に味方した。江戸幕府公認の大名となった利直は盛岡城を築いて九戸から引き移り、260年余の拠点とした。しかし、南部領は山と海に挟まれて平地は少なく、ヤマセと呼ばれる冷たい北東風が吹く、農業生産性が極端に低い地域だった。冷害・凶作がひん発し、大飢饉によってしばしば多大な餓死者を出した。1740〜50年代に八戸に住んだ医者安藤(あんどう)昌益(しょうえき)は「武士も耕して食え」と、封建(ほうけん)社会を批判した。

 江戸時代後期には日本近海に外国船が出没するようになり、とくにロシア船対策が大きな課題となった。蝦夷地に近い盛岡藩・弘前藩は警備の主力とされ多くの人数を派遣したが、それが幕府に評価され、大幅な知行(ちぎよう)の加増を受けた。それゆえ、嘉永6年(1853)のペリー来航で幕府が動揺・崩壊への道をたどった時も、盛岡藩は最後まで幕府を支持する立場を貫いたのである。

 東北地方において、一つの地域で鎌倉・室町・戦国・江戸と家名をつないだ大名は、南部氏の他にはない。

(青森県史編さんグループ近世部会 本田 伸)

「津軽氏」とは − 津軽為信の独立 −

  • 2014.03.31 Monday
  • 15:30
津軽為信の独立

 南部氏から津軽地方を実力で切り取り、戦国の世の生き残りを果たした津軽為信(ためのぶ)の前半生については、実はよく分からない点が多い。

 為信が津軽姓を名のるのは天正19年(1591)からで、それ以前は妻方の大浦(おおうら)姓を用いていた。しかし、為信が成人するまでの過程については諸書の記述が食い違っていて、決定的と言えるものはない。17世紀中ごろに書かれた為信の伝記「愚耳(ぐじ)旧聴記(きゆうちようき)」によれば、為信は大浦為則(ためのり)の弟の子で幼名は「扇」だったという。一方、南部氏の「参考諸家系図」によれば、為信は久慈(くじ)治義(はるよし)の二男で幼名を「平蔵」といった。兄信義と不仲になり、弟五郎とともに大浦為則の養子になったという。

 為則の跡を継いだ為信は、永禄10年(1567)、岩木川中流部の大浦城(現弘前市賀田)に拠点を移した。元亀2年(1571)には石川城(現弘前市)を攻めて津軽郡代石川高信(南部信直の父)を自殺させ、南部氏に対し公然と叛旗を掲げた。為信は秋田の安東(安藤)愛季(ちかすえ)らに持ちかけて南部氏を牽制させ、天正4年(1576)には、南部氏の一大拠点大光寺城(現平川市)を攻略した。さらに浪岡城にいた南部氏の客将北畠氏を滅ぼし、津軽平野を横断する平川に面した浅瀬石(あせいし)城(現黒石市)なども従えて、豊かな南津軽一帯を支配下に置いた。隣国の比内(ひない)・鹿角(かづの)地方の領主たちや、東国・北陸・畿内から移住してきた武士らも家臣団に取りこんだ。

 為信が南部氏からの独立を画策していたころ、豊臣秀吉は関東・東北地方に惣無事令(そうぶじれい)と呼ばれる私戦停止命令を発した。秀吉への臣従を決めた南部信直は天正17年(1588)、いち早く小田原に参陣し、為信による津軽伐り取りを惣無事令違反として訴えた。取り次ぎ役の前田利家は信直への手紙で「いずれ為信は処罰されよう」と返答しており、少なくともこの段階では、為信は秀吉政権への反逆者と見られていた。
 しかし、為信は秀吉とじかに接触することで、惣無事令違反の適用をまぬがれた。為信は秀吉に名鷹を贈り、秀吉も礼状を返してそれに応えたが、戦国大名にとって鷹がたいへん喜ばれる贈り物だったことを、為信は知っていたのだ。為信に対する評価は、文禄元年(1592)、前田利家が徳川家康に「為信は裏表のある人物(表裏之仁)で油断がならない」(「宝翰類聚」)と忠告した点に尽くされているが、そのような奸雄の道をあえて選んだところに、為信が戦国の世に生き残りを果たし得た理由があると思われる。

 慶長7年(1602)から同10年にかけ、為信は津軽と上方を2度往復した。これだけの短い期間に大きな移動を繰り返したのは、いわゆる参勤交代に近い意味合いがあったのだろう。為信にとって不運だったのは、同12年、長男信建(のぶたけ)が32歳の若さでなくなったことである信建は病気がちだったが、為信が京に不在の時は、名代として各所に出向く機会が多かった。信建が居たからこそ、為信は安心して津軽に戻り、領地経営に勤しむことができたのだ。後継者に先立たれた為信も同年末、後を追うように亡くなった。

 為信の次男信堅(のぶかた)は早世していたため、跡目は三男信枚(のぶひら)が継ぐしかない。急ぎ江戸に下った信枚の相続は認められ、そのまま津軽に戻った。しかし、国元では信枚の2代藩主襲封をめぐり、騒動が持ち上がっていた。信建の子大熊が家督相続の権利を主張し、信枚を廃するよう幕府に訴えたのだ。いわゆる「津軽大熊事件」である。大熊の後押しをしたのは、もと小田原北条氏の家臣だった津軽建広である。縁あって為信の娘をめとり津軽姓を名のった人だが、そうした経歴の持ち主が動きを見せているところに、戦国末期の慌ただしい世相が浮かび上がってくる。しかし、幕府は大熊らの訴えを認めず、信枚を正統な藩主とした。

 信枚の菩提寺である長勝寺(ちようしようじ)(弘前市)には、為信が京の仏師に刻ませたという肖像彫刻が安置されている。「髭殿(ひげどの)」とあだ名された魁偉(かいい)な風貌を伝える、みごとなできばえの木製坐像である。

(青森県史編さんグループ近世部会 本田 伸)